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2018年1月28日日曜日

私の信条―苦進楽慎


 引き続き、昨年9月に中国で出版された安崎会長の著作「夢を蒔く」(中国語版は、中国側出版社の主張により「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名となっています)の内容をピックアップして掲載いたします。

 今日は「苦進楽愼」という部分になります。これは、去年12月11日開催された感謝の会の入場券として参加者へ配布された『感謝』と題された手紙に載せてあります---「私の好きなことば」として、・・・『苦進楽慎 苦しい時はとにかく前進あるのみ。調子の良い時は浮かれずに用心しろ』・・・

苦進楽愼---苦しい時はとにかく前進あるのみ。調子の良い時は浮かれずに用心しろ



 両親の事を書いておこう。父親は、四国徳島の出身。幼少期に両親を病気で亡くし、父の姉と兄弟は大変苦労したという。それでも父は旧制中学校3年から、学費がいらない特待生となり、4年になるときに、これまた学費のいらない陸軍士官学校に入り、帝国軍人として勤務した。日中戦争に従軍し、終戦時に捕虜収容所に入れられ、終戦後しばらくして復員した。
 このころの日本では、一定以上の階級だった職業軍人は、連合軍の公職追放令に引っかかり定職に就くことができなかった。だから、私の少年時代の我が家は、貧乏そのものだったが、父親の口癖は、「金は天下の回りもの」。実にあっけらかんとしたものだった。
 母親は、四国阿波の徳島藩主の系統で、祖父、蜂須賀喜信の次女として生まれた。縁あって父と結婚した。昔であればお姫様に近い境遇だったであろうが、父の出征後に4人の子供を抱え、空襲を避け、疎開などの苦労の連続。父の復員後も、貧乏暮らしだったが、それを苦にする様子は見せなかった。子供の私から見ても、蜂須賀の家名を全くひけらかせず、父親第一の良妻賢母であった。私の幼少期には、父親の記憶はあまりないが、母親は、父親不在の戦時中でも、子育てが大変だったろうが、口には出さず、愛情深く、とても優しい母親だった。叱られた記憶は一切ない。
 父親は、公職追放令が解除された後、警察予備隊、保安隊、自衛隊と勤務。陸将になり、東北方面総監を最後に除隊した。現役のころ、陽明学者で思想家の、安岡正篤の会合に出かけ、彼の指導を受けていたようだった。私は社会人となってから、父の話で記憶していた安岡の名前を思い出し、彼の著書を何冊か読んだ。彼の論のすべてに感心したわけではないが、『百朝集』という本に「六然」という文を見つけた。
 中国の明時代末期の崔後渠という、王陽明と同時代を生きた学者で気節の人の言である
「自處超然 處人藹然 有事斬然 無事澄然 得意澹然 失意泰然」……自分に関しては、世俗にとらわれないようにすべし、人に対するときは、相手を喜ばせ気持ちよくさせるべし、何かをやるときは、すぐにやるべし、何もないときは、澄んだ気持ちを保つべし、得意なときでも、静かで安らかな気持ちを保つべし、失意の時でも、泰然自若と構えるべし。
という六つの「然」を並べ、「これができたら真の自由人である」と述べているのが気に入った。
 コマツの役員になったころ、この「六然」を思い出したが、なかなかこのようには過ごせない。それでも、あるべき理想の処世として、時に口ずさんでいたものだ。コマツのグローバル化を陣頭指揮するとき、これに似た「苦進楽愼」という言葉をどこかで見つけた。「困難には、とにかく前に進め、調子のよいときには、浮かれずに用心して慎重を期せ」という程度に理解した。普通はこの逆の行動をしやすいものだ。
 ピンチに動ぜず、バブルに浮かれずということを諭す「苦進楽愼」は、「自處超然 處人藹然」同様に、会社経営の節目、節目に私を鍛えてくれた言葉だ。


2015年8月27日木曜日

安崎会長、9月9日CIO賢人倶楽部主催の公開セミナーで講演

この度、CIO賢人倶楽部木内里美会長のお誘いで、9月9日(水)午後、当賢人倶楽部主催の「どうする、CIOの後継者育成」をテーマとする公開セミナーで安崎会長の講演が決まり、コマツ現役時代人材育成などへの取り組みを含む日本型ハイブリッド経営の実践について、一時間ぐらい語ることになりました。


講演後、CIO賢人倶楽部の役員達と、『CIOおよびIT部門の人材育成のポイント』をテーマとするパネルディスカッション、出席者からの質疑応答及び交流会も予定しております。

公開セミナーは無料で、詳細及びご参加申込はこちらへ ⇒ どうする、CIOの後継者育成



2013年12月24日火曜日

人材育成について - 有关人才培育

ブログをご注目ご応援の皆様、ありがとう。最近、読者の大木さん、袴田さん、山口さん、東さん等の方々に続きWangさんからは質問をどんどん寄せてきて、私の生真面目な文章を真面目に読んでくれている方々もいるなと感心した。

いろんな質問の回答にチャレンジしようとすると、きりがない話になってしまうから今後の課題にしよう。ご興味をお持ちの方々、是非一緒に考え正解を求めてほしい。

難しいと言っても、Wangさんからの人材育成についての質問を受けて今日は本題を少し逸れる気になった。

人材育成といえば、私はコマツの伝統的な優れた教育制度のおかげで30代の若手社員の頃1年間の全寮制のビジネススクール 貿易研修センタ(IIST)に派遣された。IISTは当時の日本の国際化に対処する人材養成機関として、政府・民間の共同出資で設立され1969年に開校した。このIISTの卒業旅行として1970年に他社からの120人の仲間と共に全米各地を訪れた。40日間をかけて政府機関や民間企業を訪問した。我々若手ビジネスマンをアメリカの大企業トップ自らが相手をしてくれた。1$360円の時代で会社支給の日当も少なくレストランでの御馳走など食べられなかった。私は妻と生まれたばかりの長女を残しての海外旅行だった。パーテイで話した石油会社のCEOには、40日も奥さんを残して旅行に出かけるなんてアメリカなら離婚ものだぜと冷やかされたのを覚えている。自分が社長になって、アメリカの若いビジネスマンや学生が来日した時にはこの恩返しにお相手をしてさしあげた。

コマツは一貫して人材育成に力を入れてきた。90年前の創業者竹内明太郎の時代からの伝統だ。
1995年社長就任後活力のある45歳位の社長をどう作るかを考えた。日本の大企業の社長の就任年齢は60歳以上、欧米に比べて年寄りで旬を過ぎている。次世代の社長候補の育成も念頭におき専門分野の教育研修とは別個の教育をすることにした。30代、40代の早い時期に候補者を選別し、10年間で500人のビジネスリーダーを育成すると社内外に宣言した。社内に特別なビジネススクールを設置したのだ。研修終了後は元の出身職場には戻さずに事業部の責任者、関係会社の社長など修羅場の経験を積ませる人事上の工夫もした。

今日の脱線談はこの辺でおしまいにしましょう。最後までお読みありがとう。

---以下中文---

谢谢各位对我博文的关注和声援。最近,继大木桑、袴田桑、山口桑、東桑留言后,又收到Wang桑的连连发问。 见有人认真阅读我这些严肃古板的文章,不胜感激。

我要是试图去回答这么多提问,必定会无边无际难以收场,所以还是留作以后的课题吧。若有兴趣,希望与我一起思考,一起寻求正解。

虽说如此,今天Wang桑关于人才培育的提问,却让我不由得想跑题一次了。

说起人才培育,我想起多亏了小松良好的教育制度,让我在30多岁的时候被派去1年寄宿制的商业学校贸易研修中心(IIST)进修。IIST是在当时日本的国际化环境中应运而生的人才培养机关,由政府和民间共同出资设立,于1969年开始授课。在IIST的研修结束后,我于1970年与来自于其他公司的120人结伴参加了去美国的毕业旅行,遍访了美国各地。我们在40天里,访问了政府机关以及民间企业。大企业的高层人员们接应了我们。在那个1美元360日元的时代,公司支付给我的日用津贴很少,饭馆里的美食吃不起。记得在宴会上,和我聊天的一家石油公司的CEO得知那是我在妻子刚刚生下大女儿之后的一次旅行后逗我说,竟然离开妻子海外旅行40天,这要是在美国的话早离婚了。我就任社长后,感恩于在美国受到的礼遇,当有美国的年轻经济人士来日本,我也好好地接待他们。

小松一贯坚持致力于人才培育。这是从90年前的创业者竹内明太郎时代一直留存下来的传统。
我在1995年就任社长后就开始考虑怎么做才能培育出45岁左右的社长。日本大企业的社长就任年龄通常在60岁以上,与欧美公司相比偏老,已经过了最适合担任社长的年龄。因此我抱着培育出下代社长候补人的念头,决定在专门分野的教育研修之外,另行实施个别教育。具体说来,就是在30岁或40岁年龄层里,早期筛选候补者并分类,进而发出了在10年之内培养出500名业务干部的宣言。可以说在公司内部设置了一所特别的商学院。这些员工毕业后,我不是让他们回到各自的岗位,而是在人事上多下功夫给他们其他机会,比如成为某项事业部的负责人,关联公司社长等等,让他们得以在这些岗位上积累丰富的实战经验。

今天的跑题之谈就到此为止。谢谢您一直读完本文。

2013年11月20日水曜日

多様性の容認、独自性の維持(続4)-多様性的包容、独自性的維持(続4)

ブログをご注目ご応援の皆様、ありがとう。今日は脱線談から「1.グローバル化にどう取り組むか」という本題に戻ります。

1.2 多様性の容認、独自性の維持(前文に続き)



(3)独自性の確認

グローバル企業として私が、現在までお手本のように関心を持ち続けている会社は食品のネッスルだ。世界企業としてのネッスルは全ての面で我われより先行している。
日本のグローバル企業としては、コマツも先頭を走っているグループの1社と自負しているが、世界のグローバル企業としての独自性の確認にはまだ至っていない。我われの独自性はいまだ日本的で世界的ではない。
さはさりながら、多様性の受容に努力してきた過程で多くの客先、社員に“品質と信頼性”という旗印を日本のグローバル企業としての独自性と認めてもらっている。 この旗印は建設機械という商品とサービスの特性からくる“品質と信頼性”にとどまらず、世界中で展開する事業そのもの、世界中の組織・従業員の“品質と信頼性”を磨き続けるためのものだ。世界企業としての実力がまだ不足している今の段階では、無国籍、多国籍のグローバル企業よりは日本籍を忘れない方が良いと考えていたからだ。
日本のグローバル企業が名実ともに世界のグローバル企業として一段階上の存在となるには、日本と日本社会のさらなる開国が必要ではないか。中国もしかりだろう。この辺も交流会のテーマのひとつたり得るだろう。
最後までお読みありがとう。

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谢谢各位对我博文的关注和声援。今天结束跑题谈,回归「1.如何致力于全球化事业」的正题。

1.2 多样性的包容,独自性的维持(续前文)



(3)独自性的确认

作为全球化企业榜样的食品厂家雀巢,是我一直关注的对象,因为雀巢作为世界规模的企业在所有方面都走在我们的前头。
在日本的全球化企业中,小松虽可因其位居领先企业之列而自负,然而可以说小松至今也尚未具备作为世界规模全球化企业所应拥有的独自性。我们的独自性还局限于日本,尚未被世界所认可。
虽说如此,小松在努力实现包容多样性的过程中,打出“品质和信赖性”的旗帜并大获全胜,具备了作为日本的全球化企业所需的独自性并赢取了客户和员工们的认可。小松不是仅仅将这面旗帜插于建设机械厂家的商品和服务领域,而是插遍在全世界拓展中的事业领域,根植于全世界的组织里以及员工们的意识里。我当时的观点是,小松尚未充分具备成为世界规模全球化企业所应拥有的实力,因此与其贸然向无国籍,多国籍方向发展,不如先维持日本籍企业的形象。
日本的全球化企业要想更上一个台阶,名副其实地成为世界型全球化企业,我认为需要进一步的开国政策让日本以及日本社会走向世界。中国也如此。这也是将来交流会的主题之一。
谢谢阅读。

2013年11月13日水曜日

コマツ経営風土の改革等(続き2)-小松经营风土的改革等(续2)

ブログをご注目ご応援の皆様、ありがとう。前文では質疑応答でしたが応答が終わってないため今日も続きます。

質問:コマツは多様性、柔軟性、ハングリー精神をグローバル経営にどのように工夫して植えつけたか?


前文回答3に続きます。
この90年代委員会は、21世紀に定年を迎える幹部社員には参加を遠慮してもらい若手社員中心の議論とした。女性の活用、育児休暇のあり方、本音の社会貢献のあり方、不正行為防止の覚悟、悪い情報のトップへの伝達、トップを裸の王様にしない工夫、海外で活躍するノンジャパニーズ社員の処遇、また彼らとのコミュニケーション、数々の議論を経て社員の行動基準としてまとまった。日本語、英語で小冊子を作り国内外で社員に語りかけた。これは後にコマツウェイとなっていく。毎年改訂版を出し、中国語、ロシア語版もできた。

当時の若手社員は21世紀に幹部社員となり活躍している。本音の議論を戦わせたことが、彼らの血や肉となっている事を実感した。ところが時間がたつと新しい社員がふえ、会社の成長と共に大企業病が流行しヒラメ社員が増えてくる。客先や市場の実態から目をそむけて平然とするようになってくるのは世の定め。経営のハードに比べてソフトの実力の進歩は容易ではない。トップ層の格別の関心が必要なゆえんだ。
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また、産業と金融の関係について少し前のブログにも東さんとWangさんからコメントが寄せられた。


この話題についても少し触れましょう。
産業と金融の関係がかつてのように補完関係を維持できなくなり金儲け万能の利益第一主義、効率第一主義が蔓延してエンロン事件、リーマンショックをもたらした。Wangさんの言われるごとく金融の実態は産業と無関係に発展していく、しょうがないとの見方もあるが、先ず第一にコーポレートガバナンスの確立、第二に政府機関による無秩序な金融の規制、私は金融の暴走を防ぐ手段はあり得るとの見解だ。この辺は将来の交流会の重要なテーマとなるでしょう。

今日の脱線談はこの辺でおしまいにしましょう。最後までお読みありがとう。

-----以下中文阅读-----

谢谢各位对我博文的关注和声援。前文跑题回应读者提问尚未结束,因此今天继续跑题谈。

提问:小松是怎样成功地把多样性,柔软性,不懈追求精神根植于全球化经营里的?


以下继续前文的回答之3。
90年代委员会避免让21世纪就到退休年龄的干部员工参加,主要让一些年轻员工加入并展开讨论。女性员工的起用,育儿休假以及真正的社会贡献的理想状态,防止不正行为的决心,如何让坏消息直通高层而不诞生穿新衣的皇帝,活跃在海外的非日本籍员工的待遇,和他们的沟通问题,委员会通过对各种问题的讨论,将结论归结为员工行动基准并制成日语,英语小册子,向国内外员工宣讲。其后这便发展为小松模式,每年制作改定版,后来中文版和俄语版也发行了。

到了21世纪,那时的年轻员工已经成为活跃的干部员工。我深感让他们投身于真心论战的做法大获成功,因为犹如战士在战火中增强血肉之躯那样,他们也从论战锤炼中胜出了。然而,新的员工其后也在增加,随着公司的成长大企业病也蔓延起来,那种只看上司脸色,只与上司亦步亦趋的员工也增加了。对客户以及市场的实态熟视无睹,这也是世之常态,所以比起经营硬件,增强经营软件也并非易事,高层在此方面的格外关注尤其不可或缺。
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另外,前些日子针对我有关产业和金融关系的博文,东桑和Wang桑也曾经留言。


今天就此话题也略述一下我的见解。
产业和金融已不如从前那样能维持互补关系,金钱万能的利益主意,效率第一主意蔓延,引发了安然事件,雷曼事件。Wang桑所说的金融易与产业脱钩发展,似乎无法控制,这种看法确实存在。但是我认为这个问题还是应该有办法解决的,第一是确立企业控管体制,第二是政府机关强化控制金融市场无序发展的有关规章制度。总之,控制金融市场失衡发展的手段是有的,这是我的见解。我想这是我们将来交流会上重点议论的题目。

今天的跑题之谈就到此为止。谢谢阅读。


2013年11月6日水曜日

コマツ経営風土の改革(続き1)-小松经营风土的改革(续1)

ブログをご注目ご応援の皆様、ありがとう。前文では本題+Wangさんへの質疑応答でしたが応答が終わってないため今日も続きます。

質問:コマツは多様性、柔軟性、ハングリー精神をグローバル経営にどのように工夫して植えつけたか?
---90年代委員会の取り組み


回答(全文に続き)
3.1985年、48歳の私はコマツの取締役に選任された。自分では遅いとうぬぼれていたが、周囲の人は早すぎる出世だと多少のやっかみもあった。
取締役会に出席した時になんとなくピンとこない感じに悩まされた。当時の日本の大会社は似たり寄ったりであったが、取締役の数が多すぎコマツでも25人。(尤も少なければ、自分はまだ選ばれていない!)最高の意思決定機関であるはずなのにまともな議論は期待できない。重要事項を上位取締役数名の経営会議で議論、決定し取締役会ではこれを追認していた。社長の独裁も起こりやすい。取締役が自己部門の事柄のみに責任を持ち、全社の課題や他部門の問題には口をはさまないので部門最適・全体不適の弊害が起こりやすい。特にグローバル化への対策は危機意識とスピード感覚が欠けていた。生意気な奴と時に先輩取締役から反感をもたれながらも、国内外の営業実績を武器に徐々に社内での発言権を増やしていった。
1988年私の前任の片田哲也さんが社長に就任、私は経営企画の担当となった。彼は経営のハードとソフトを分けて考え、ハード(開発、生産、マーケティング、管理など)の施策の他、経営風土などソフトの改革が重要だと認識していた。プラザ合意以降の急激な円高進行の時代に国内外の営業現場を担当してきた私は21世紀のグローバル経済に対処する社内の体制を整備することが急務だと考えていた。社長と方向性が一致したので、10年先のグローバルな経営課題への対策を定め1990年代の内に先手を打とうと若手社員を中心とする全社横断の90年代委員会を立ち上げた。初めは経営風土などソフト面の改革を中心とした。上下左右、縦横斜め、もっと自由に率直に議論し、良いということを素早く実行するには何が障害か、その障害を取り除くのにどうすれば良いか?悪いニュースをトップに素早く上げるにはどうするとよいか?世界中の社員に不祥事を起こさぬような仕事をしてもらうためのトップの覚悟は何か?ダラダラ残業をなくし、仕事と家庭を両立させるための会社の役割、責任は何か?日本人以外の外国人にもコマツマンとしての権利と義務、参加意識と責任を持ってもらうにはどうするか?等々90年代委員会で、アフター5でなく、勤務時間中に侃侃諤々の議論をしていた。(続き)

今日の脱線談はこの辺でおしまいにしましょう。最後までお読みありがとう。

-----以下中文阅读-----

谢谢各位对我博文的关注和声援。前文本题之后跑题回应了Wang桑的提问,不过回答尚未结束,因此今天继续跑题谈。

提问:小松是怎样成功地把多样性,柔软性,不懈追求精神根植于全球化经营里的?
---90年代委员会的拼搏


回答(续全文)
3.1985年,48岁的我当选为小松的董事。我自己有点大器晚成的感觉,而周围却也不乏说我出头太早的红眼病人。
最初出席董事会时我有点困扰,因为觉得与大家有些不合拍。当时的日本公司都大同小异,董事人数太多,小松董事会也是25人的阵营(人数少的时候我还没当选)。本该是最高决策机关的董事会,却没能讨论什么正经大事。重要事项由位居高位的几名董事在经营会议上讨论决定后,董事会走走事后认可程序而已。其结果,首先是容易引发社长的独裁,其次董事们也只对自己部门事务负责,对全公司的课题以及其他部门的问题采取不闻不问的态度,由此滋生出有利局部(部门)而不利于总体(公司)的弊端。特别是在全球化对策方面更缺乏危机意识和速度感。更有骄狂之辈,置前辈董事们的反感于不顾,以其在国内外的营业实绩为武器在公司内逐步增强了发言权。
1988年,我的前任片田哲也先生就任社长,我负责经营企划工作。他把经营分成硬件和软件分别对待,在实施硬件(开发,生产,市场营销,管理等等)对策的同时,还认识到在经营风土等等软件方面进行改革的重要在。在广场协议后的日元急剧飙升时代负责过国内外营业现场工作的我也认识到,整顿并构筑一个能在21世纪全球化经济大潮中胜出的公司体制已成为了紧迫要务。我的思路和社长的方向性是一致的,因此作为10年后全球化经营课题对策,我在1990年代先下手为强,创设了横断整个公司的90年代委员会,成员以年轻员工为中心。委员会的工作最初以经营风土等等软件方面的改革为主。讨论的问题各式各样,包括:在公司里上下左右,纵横斜向,方方面面都能快速,自由,直率地展开讨论,形成这种良好风气存在什么样的阻力,如何才能排除这些阻力?如何才能让坏消息快速反映到高层?高层该如何做才能让遍布全世界的员工们能预防不祥之事的发生并得以好好工作?要整治拖拖拉拉的加班风气,让员工们能工作家庭两不误,公司该充当什么样的角色,该担负什么样的责任?怎么做才能让外国员工也意识到自己作为小松人所拥有的权利和该尽的义务,增强他们的参与意识以及责任感?等等,90年代委员会针对各种各样的问题展开了活跃的议论,不在下班后,而是在上班时间里侃侃而谈,畅所欲言。(续)

今天的跑题之谈就到此为止。谢谢阅读。

2013年10月30日水曜日

多様性の認容、独自性の維持(続3)-多様性的包容、独自性的維持(続3)

ブログをご注目ご応援の皆様、ありがとう。先週本題を逸れWangさんからのリクエストに応じたが、まだ回答になってないため今日は「1.グローバル化とどう取り組むか」という本題の後にまた続きます。

まず全文に続き、海外トップ人事についての失敗・成功事例を紹介します。

C.中国

中国では、市場開拓、輸出、マーケティング・サービス、合作、合弁、独資等々コマツとして数十年のビジネスの歴史がある。
日本人が交代でトップを務める時代ではないと割り切り、近年コマツの多くの中国現地法人でトップが中国人となった。
最初の中国人トップは古くからいろんなポジションを経験し、中国はもちろん、日本の事情にも通じた最適任者を思い切って統括会社の総経理に登用した。これは大成功。未だ日本の会社では珍しい時期だったのでローカル社員の士気も上がった。彼は中国特有のネポテイズムを退け、彼に続く中国人社長の模範となっている。
第2世代の中国人トップは個々の事業別或いは地域別会社の経営を任され、それぞれが名社長となるよう互いに更に上を目指しての競争をしている。

以下はWangさんの質問、コマツは多様性、柔軟性、ハングリー精神をグローバル経営にどのように工夫して植えつけたか?に対する回答です。

1.1985年プラザ合意による1$240円から短期間での120円、さらには79円に至る急激な円高、1980年代後半の日本経済バブルとその崩壊、日本経済の長期停滞、その一方で進むグローバル化と言う時代背景があった。進むも地獄、退くも地獄であった。我々が手掛けたのは、企業風土の改革、コーポレート・ガバナンスの改革、それと思いきったグローバル化対策だった。

2.先ず世界各地に海外工場を建設した。100%自己資本、現地企業と合弁、M&A、その時点の天地人、資金の事情によりやり方は異なるが、短期間に多数の現地法人を立ち上げた。時間も資金も人材も足りない。社内の危機意識も不足。どう工夫したか?(続き)

今日の本題+脱線談はこの辺でおしまいにしましょう。最後までお読みありがとう。また次回ね!

---中文阅读---

谢各位对我博文的关注和声援。上周跑题回应了Wang桑的要求,不过并没有完全回答她的提问,因此今天在本题「1.如何致力于全球化事业」之后继续跑题谈。

首先继全文,继续介绍海外高层人事失败以及成功的事例。

C.中国

小松在中国建功立业的历史已长达数十年,包括市场开拓,输出,营销・服务,合作,合并,独资等等方面。
从前的高层人事采用让日本人交替出任的方式,近年来则是果敢告别这种方式,让中国现地法人的高层人事多多采用中国人才。
最初升入高层的中国人是一位很早就饱经各种职场考验,不仅了解中国而且也了解日本的人才,我们认为他是最合适的人选,就果断大胆地选用他作为统括公司的总经理并获得了大成功。这个做法对于当时的日本公司来说尚属罕见,因此还提高了现地员工的积极性。他击退了中国特有的裙带风气,成为之后其他中国人总经理的模范。
其后我们选用第2代中国人高层人员作为各个事业部门干部或者各个地域公司的经营者,他们也都力图成为有名的总经理并互相展开良性竞争。

接下来,回答Wang桑关于小松如何将多样性,柔软性,不懈追求精神根植于全球化经营里的提问。

1.1985年的广场协议引发了1美元兑240日元在短期内爆跌至120日元,继而79日元,导致了急剧的日元飙升,之后是1980年代后期日本泡沫经济的膨胀及其崩溃,日本经济的长期停滞,另外还有全球化的加速,可说是个难题不断的时代。在这样一个前进是地狱,后退也是地狱的时代,我们着手进行了企业风土改革,企业控管改革以及果敢大胆的全球化对策。

2.首先在世界各地建设海外工厂。100%的独资,与现地企业的合并,M&A等等,根据当时的天时地利人和资金等等因素,具体做法有所不同,但是在短期内设立了很多现地法人。时间,资金以及人才短缺,公司内的危机意识也不足,怎么办?(待续)

今天的本题+跑题之谈就到此为止。谢谢阅读。


2013年10月16日水曜日

多様性の認容、独自性の維持(続2)-多様性的包容、独自性的維持(続2)

 ブログをご注目、ご応援の皆様、ありがとうございます。引き続きご応援お願いします。

 前文で海外トップ人事についての失敗・成功事例を3つ挙げたが、もう少し詳しく出来ないのかというご要望があったので、前回と重複する部分があるのですが、この話をもう一度詳しくしよう。

 コマツは、海外トップ人事に、その地のローカル人を起用する方針を日本企業としては、早い時期から実行してきた。グローバル企業として現地の社会、顧客、社員の支持を得る上で、重要なポイントと確信していたからだ。
 本部で決めたことを疑問を持たずに忠実に各地域で実行せよというのでは、本部と各地の拠点との関係は、主従の如き間柄になってしまう。一見、強力な統制下にある立派な組織のようにも思えるが、市場密着、創意工夫を旨とする民間のグローバル企業には不適当だ。政府機関の本部、出先の関係なら時に認められるかもしれないが、民間企業でこの真似をしていたら、競争に勝ち、発展を続けることは難しかろう。先ず第一に良いローカル社員の採用は困難となる。現地の事情を無視することが起きやすい。

 理屈はそうだが、実務上は、相当の辛抱、工夫が必要となる。失敗、成功、試行錯誤の連続であった。地域または国別に、失敗、成功の例をいくつか思い出してみよう。

A.欧州



 30年ほど前の欧州統括会社(金融、マーケティング)の日本人社長の後任を欧州人にローカル化しようと計画した。ヘッドハンター専門会社に候補をさがしてもらった。SPECにあう数人の内3人を同僚と共に面接し、異業種のドイツ人マーケテイング担当役員を採用した。新社長は欧州事業は自分に任せろと自信満々に新方策の実行を始めた。日本から余計な口出しはするな、欧州多国籍社員(フランス、UK、イタリー、ベルギ―など)との意思疎通には無頓着、周囲から孤立しやむを得ず手切れ金を払って辞めてもらった。
人選の失敗といえばそれまでだが、欧州全体の中での独、仏、伊、西、英の社員間の微妙な関係といきなり外部からNO.1を持ってくるリスクに気づかされた その後、欧州統括会社は金融を別会社としベルギー人社員からの昇格、マーケテイングは日本人社長(欧州社員にとって日本人社長の方が安心)として現在に至っている。

 欧州ではトップ人事のローカル化成功例もあった。
 UK生産法人のトップは2代目の社長から英人でこの英人社長は、欧州同業他社からも信頼され、30年前に日本の現地法人として始めて欧州同業の建設機械工業会の会長を務めました。
 ドイツ法人は初代からドイツ人を選び成功している。この事例はすでに前文で詳しく述べた。

B.アメリカ



 アメリカの現地人トップは更に難しい。欧州と同じのやり方だと、良い人はとても採用できない。初めからトップが条件だ。
 大企業との合弁、その後の買収100%化の過程で苦労はしたが、合弁相手から優秀な人材を確保できたのは有難かった。日本企業の100%現地会社で採用できるクラスより格上の人材が貴重な経営資源となっている。
 コマツの工夫は、CEOとCOOをアメリカ人と日本人合議のチェアマンズ・オフィスとして協議をつくすこと。更に別に始めた欧米アジアの有識者からなるインタナショナル・アドヴァイザリー・ボード(IAB)に海外経営の実態を包み隠さず開示して助言をうることだ。100%会社後も優秀な人材が残ってくれたのは、会社の経営姿勢、方針をIABにかれらも同席して議論に参加する過程で理解を深めることができたという事情によることが大きい。(続き)

---以下中文版---

谢谢各位对我博文的关注和声援。敬请继续支持我。

  关于我在前文列举的几个海外高层人事方面的失败和成功事例,有读者询问能否讲得更详细点,因此虽然与前文有所重复的内容,我还是决定今天再次具体地进行这个话题。

  比较其他日本企业,小松更早开始实施高层人事现地化的方针。因为小松确信,作为一个全球化企业这么做在获得现地社会,顾客以及员工的支持方面极其重要。如果要求各地毫无疑问地忠实地执行总公司的决定,那么总公司和各地据点就成了主从关系。这看似在强力管控下的一种出色的组织,却并不适用于以市场主导型,创意功夫为宗旨的民间全球化企业。若是政府机构的本部与驻外机构之间,这种关系也未尝不可,而民间企业也照此行事,则难于在竞争中以及寻求持续发展中取胜。首先会遭遇采用不到优秀的现地员工的难题。其次是公司里容易滋生出无视现地实际情况的风气。

  这个道理说来容易,然而在实际工作中则需要付出相当大的耐心及努力。小松在这方面也有过许许多多的成功,失败以及试行错误。

  以下就涉入记忆的长河,举出几个在不同区域或者国家里失败和成功的例子。

A.欧洲



  30年前,我们计划选用现地人才接任一家欧洲统括公司(金融,市场营销)的日本人总经理之位。为此我们开始通过专业猎头公司寻找候补人选,在几个符合条件的人选里挑出3人,我和同僚们一起面接他们,最后采用了拥有不同行业市场营销干部经历的一个德国人。这位新任总经理信心百倍地表示欧洲事业就交给他好了,并开始实行新的方针策略。然而希望日本不要指手划脚干预的他,却梳理不清与多国籍员工(法国,英国,意大利,比利时等等)之间的沟通工作,陷入孤立无助难以展开工作的困境,以至于我们被迫支付抚恤金并解雇了他。
  如果仅谈人选失败,话就到此结束了,但是这件事让我领悟到了更多的东西,就是在欧洲国家中德国,法国,意大利,西班牙,英国员工之间的微妙关系以及突然采用外部人员为公司头号人物的危险性。
  之后我们把欧洲统括公司的金融事业独立出去另立公司,升级任用了比利时籍员工,市场营销由日本人总经理负责(欧洲员工对日本人担任总经理更为放心),至今如此。

  不过在欧洲选用现地人为总经理也有成功的例子。
  英国生产法人的头号人物,从第2代开始我们选用了英国人。这位英国人总经理深受欧洲同行业其他公司的信赖,30年前首开先例,代表日本在欧洲的现地法人出任过欧洲同行业建设机械工业会的会长。
  德国现地法人从第1代就选用德国人并获得了成功,这在前文中已经详细叙述。

B.美国



  小松在美国的现地高层人事更难。若用与欧洲相同的方式,那么要想采用优秀的人才则非常困难。优秀的应聘者一开始就冲着第一把交椅的位置而来。
小松虽然最初在与大企业的合并以及其后100%的收购事业中历尽了艰难险阻,却难能可贵地从合并方获取确保了优秀的人才。这次获得的人才水平高于日本企业100%的现地公司通常能采用到的人才水平,成为了公司贵重的经营资源。

  小松在高层人事方面所下的功夫在于,最高经营责任者(CEO)和最高执行责任者(COO)由美国人和日本人共同参议的会长室协议诞生。进而,我们还发起成立了由欧美亚的有识之士组成的国际顾问研讨会(IAB-International Adviser Board),在研讨会上毫不隐瞒地公布海外经营的实态并寻求建议。优秀的人才在公司成为100%子公司后也能留下来,我认为其要因在于,我们让这些优秀人才出席IAB参与对公司的经营姿态,方针的讨论,让他们在这个过程中加深了理解。(续)

2013年10月8日火曜日

多様性の認容、独自性の維持(続1)-多様性的包容、独自性的維持(続1)

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 前文は「1.グローバル化とどう取り組むか」の「1.2 多様性の認容、独自性の維持」」の前半でした。今日は引き続き「1.2 多様性の認容、独自性の維持」を述べます。

1.2 多様性の認容、独自性の維持(前文に続き)


  (2)海外トップ人事についての失敗・成功事例


    多様性の認容のプラス・マイナスを理解することは、企業のグローバルな経営能力の向上につながる。 海外トップ人事については、幾多の失敗・成功事例があるが、三つ挙げましょう。

 ① ドイツ会社の買収例

 1980年後半、ドイツの伝統ある会社を買収した。前の会社のトップをそのまま雇用したが、赤字経営が改善されない。我慢を続けたが、トップと日本側、もともとのローカル幹部との意思疎通が悪くなる。ドイツは監査役会の権限が強く、社長解任も手続きがいる。少数株主も法律上強く保護されている。
 この事例に教わったことは下記の通りです。
 買収時の作戦検討が不十分だった。理論上のドイツ会社法は理解していても意見が異なる問題での監査役会での議論の激しさは想定以上。買収時に少数株主にプレミアムを払ってでも100%にしておいた方が良かった。

 ② ドイツ企業の事業部門の買収例

 同じくドイツの大企業から一事業部門を買収した。 これは上述した①の会社で苦労した後だ。日本人の社長にやらせても難しそうだ。先方に若手の中の優秀者何人かを推薦してもらい、じっくりと人物を鑑定した。何年か辛抱してこの人に任せて、成功した。
 途中で日本側に言うことを聞かないあいつを首にしろという声も高まったが、良く事情を調べて、日独のコミュニケーションのやり方を改善したら、双方の理解と協力が進み事業は予想以上に大発展した。本人もドイツの会社の長所が活かせ、日本流の良いところを思いきって採用できたおかげだ、と人生意気に感じて貰っている。

 ③ アメリカのトップ人事について

 アメリカのトップ人事も難しい。本当に優れた人はいわれるほど簡単には、探せない。日本人の下で働くポストでは一流の人は興味を示さない。報酬に対する考え方も日米では大違いだ。権限と責任の範囲がどうしても一般米企業よりも曖昧なところが残る。特に技術の実力が日本に残っている場合はあれこれと本社からの口出しが多くなる。
 多様性を認容するために、私が伝教大師最澄の言葉と伝えられる“忘己利他”を信条としたのは、相手の立場を尊重理解することが日本人には意外に下手だと実感してからだ。中国人にも当てはまるかも知れない。
 マーケテイングだけの現地法人なら日本人トップでも何とか勤まる。経営全般となると実力のあるアメリカ人トップが必要だ。
 試行錯誤の末、今は、チェアマンズオフィスを日米の会長・社長で運営するやり方を採用している。合弁時相手のCEOの提案に乗ったやリかたを100%会社にした後も継続している。相性の良い二人の選定も条件となる。

 今は生産技術が日本が上、開発は、アメリカが日本を追いかけている段階。日本も努力して自分の実力を更に高めないとアメリカだけでなく世界中の現地法人に追い抜かれることになる。マザー工場が日本だと言える日が続くかどうかは彼我の努力次第だ。(続く)

 ------中国語-------

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 前文就「1.如何致力于全球化事业」,阐述了「1.2 多样性的包容以及独自性的维持」的前半部分,今天继续这个话题。

1.2 多样性的包容,独自性的维持(续前文)


  (2)海外高层人事的失败・成功事例


  能否从正反两方面理解多样性的包容问题,对于提高企业的全球化经营能力有着至关紧要的作用。
 关于海外高层人事,我们有过许许多多的失败以及成功事例,下面就列举3个。

 ① 收购德国公司的事例

 1980年后期,小松购买了德国的一家传统公司。我们照原样雇佣了原先公司的高层人员,却没能改善赤字经营。虽然我们坚持不懈地挺着,高层以及日本方面和现地那批干部之间的沟通却越来越恶化了。德国的监查役会的权限非常强,甚至规定了解雇总经理必须办理相关手续。因此少数的股东受到法律的强力保护。
 从这个事例我们认识到:我们在购买方式上没有进行足够的议论。虽说在理论上我们理解德国的公司法,但是对于有关意见相左的问题,在监查役会上相持不下争论的激烈程度却超乎我们的预估。早知如此,购买公司时我们要是付给少数股东溢价买断100%的股票就好了。

 ② 收购德国企业的事业部门的事例

 在历经上述①那家公司的艰难困苦之后,同样是在德国,我们还曾购买过一家大公司的事业部门。最初任命日本人为总经理,但终是难以成事。其后请对方从年轻人中推荐了几名优秀员工,我们认真地鉴定筛选出适用的人才,在之后的几年耐心地托付工作给他让他放手干,终于赢得了成功。
 途中曾有人说那家伙不听话,炒了他算了,但是我们通过调查事实,改善日德之间的沟通方法,增强了双方的理解和配合机制,事业的规模获得了超乎预想的发展。本人也到达了“人生感意气”的境界,活用德国公司的长处,大胆采用日本方式中好的要素并获益匪浅。

 ③ 有关美国的高层人事

 美国的高层人事也有难题存在。那就是难以找到优秀人才,一流人才对于在日本人手下干活的职位没有兴趣。针对报酬的看法日本人和美国人也大不相同。另外,与一般美国企业相比,日本企业在权限和责任范围的规定上总有暧昧之处存在。尤其是在技术实力上日方占有优势,此种状况滋长了总公司在许多事情上多嘴多舌横加干预的习气。
 那么包容多样性怎么才能做到呢?我认为,我们日本人很不擅长于尊重与理解对方的立场,因此深感需要把传教大师最澄的“忘己利他”作为我们遵循的信条。这兴许也适用于中国人吧。
 对于事业范围仅仅是市场营销的现地法人来说,高层人事为日本人尚可凑合。但是换了事业范围包括经营在内所有业务的现地法人而言,高层人事则必须使用实力派的美国人。
 经过许多反复尝试后,小松会长室采用着日美会长・总经理共同运营的方式。 我们在进行公司合并时采纳对方CEO的提议,之后把对方变成100%子公司后也继续这种接纳提议的方式。
 另外,在双方高层人事上需要选定相互投缘易于共事的人选,这也是条件之一。

 如今的时代,是日本在生产技术上占据上风,而开发却被美国超越了的阶段。日本如果不努力增强实力,更上一层楼,那么不仅仅被美国,更会被世界各地的现地法人超越。母工厂在日本国内,能否继续这么说,全靠我们今后的努力了。(续)

2013年10月2日水曜日

多様性の認容、独自性の維持-多様性的包容、独自性的維持

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 前文は「1.グローバル化とどう取り組むか」の「1.1 発展段階ごとの戦略」でした。今日は「1.2 多様性の認容、独自性の維持」を述べます。

 1.2 多様性の認容、独自性の維持


 企業がグローバル化を発展させて行く段階で、難しい課題の一つが民族、思想、文化、の違いをどう取り扱うかだ。

 日本企業もグローバル化の初期段階では、進出先の海外現地法人において、一から十まで日本流を貫きローカル社会や従業員の理解をうるのが難しく悩む時代があった。

 年功序列の賃金体系、本社の政策をローカル事情を無視して押し付けるなど現地で受け入れにくい経営を強行していた。特に人事制度の異なる欧米では、日本流に拘ると現地の優秀な社員を採用できなかった。それでも良い、2流、3流の社員の教育を徹底すればやっていける、という考えもあった。現地の駐在員を日本の人事の流れで短期間で交代させ、顧客や現地社会からせっかく事情を理解できるようになったら、人が変わってまたやり直しか!と苦情が多かった。経験不足で上のいう通りの仕事をする人が本社で威張っていると現地の苦情はトップに伝わらない。これでは、良い結果が生まれるはずがない。中には、とことん日本流を貫き現地も諦めてうまく進みかけたと思われる例もあった。しかし、時間がたつと、このなにもかも日本流ではうまくいかず、グローバル化とローカル化をうまく組み合わせないと駄目だと分かってきた。 中国企業の中にもこの辺の理解不足で進出先の現場で今でも苦労している例を聞き及ぶ。

 問題のポイントは、課題や分野により世界統一の方針で進むか、ローカルの事情に合わせた方針を取り入れるかという組み合わせにある。最も有効な手段は、経営の現地化、トップ人事の現地化にある。これは理屈でいきなり、トップを高給でりクルートしてもうまくいく保証はない。任せて見たが、今度は本社の世界方針が理解できずガタガタになってから辞めてもらったという事例も数多い。(続く)

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 谢谢大家,包括给我宝贵留言的各位对我博文的支持。

 前文就「1.如何致力于全球化事业」,阐述了「1.1 关于各个发展阶段的战略」。今天开始阐述「1.2 多样性的包容以及独自性的维持」。

 1.2 多样性的包容,独自性的维持

 企业在全球化发展阶段中的难题之一是如何处理民族,思想,文化的差异。

 日本企业在全球化初期阶段也曾有过这样的困惑,就是海外的现地法人企图在现地也彻头彻尾贯彻日本方式,却发现这很难得到当地社会和员工的理解。

 当时的企业强行实施了一些难于被现地接受的经营方式,比如论资排辈式的工资体系,无视现地实际情况强行推行总公司政策等等。如此一来,特别是在人事制度大相径庭的欧美国家,拘泥于日本方式的结果就是在现地不能募集到优秀的员工。针对这种状况,有种观点认为这没关系,采用2流,3流的员工并对他们实施完善的教育就行。然而这种短期间频繁更换现地人员的日本方式,又引来现地员工的抱怨:好不容易熟悉了顾客和现地社会,换了人又得从头开始!另外,如果那种经验不足,只能对上头的指示唯唯诺诺的员工在总公司里耀武扬威,那么现地的抱怨则难以反映到高层经营者那里,当然结果也不会好转。不过也有过因为彻底贯彻日本方式,现地屈服而勉强接受,似乎得以顺利推行的事例。但是过段时间事实就让人明白了,什么都贯彻日本方式是行不通的,全球化和现地化只有达成有机结合的状态,企业才能得以顺利发展。我听说,有些中国企业也因为这方面的理解不足,在进出国的现场里被类似的问题所困扰。

 解决问题的关键是,对不同课题以及分野制定相应的世界统一方针并按此推行,或者根据现地实际情况采纳相应的方针,并让两者达成有机结合。

 最为有效的手段是实行经营的现地化以及高层人事的现地化。关于这点,道理看似简单,却并不是个一用高工资待遇采用高层人员就必定万事大吉的事情。先把工作交给对方做,途中却因为对方不能理解总公司的世界方针而产生一些解决不了的磕磕碰碰的事情,只好解雇对方,这样的事例也发生过不少。(续)

2013年9月25日水曜日

グローバル化段階ごとの戦略(続き2)-全球化各個発展段階的戦略(続2)

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 今日も、前文「1.グローバル化とどう取り組むか」の「1.1 発展段階ごとの戦略」の続きになります。

② 自社のグローバル化の発展段階によって取り組む課題が変わってくる



 これについて時代順にいくつか見て行きましょう。

 1980年代に官民の建設投資が急減した建設機械産業は海外市場に殺到した。欧米の反発を招き、貿易摩擦 を生んだ。当時我々が取り組む課題は貿易摩擦対策であった。アンチダンピング対策、海外企業との協業、M&A,海外現地生産などが円高対策とのからみもあってこの時代の最重要課題となった。

 1990年代に建設機械産業の海外比率が高まると、現地ローカル市場での市民権を得るための工夫が重要な 題と変わった。現地法人のトップ人事を日本人から現地人へ、現地社会へのCSR重視を、工夫した。他の業界 より早くこうした課題への取り組みが始まった。

 2000年代には海外比率の高まりに伴って日本での仕事、日本人の仕事をどう創造するかという課題が大きく なってきた。会社は発展しても雇用と税金は海外に落ちる。日本の会社として無国籍化にむかうのか?

 コマツの場合、2000年代後半まで、グローバル市場での地域ごとのバランスが良く各地域が応分に発展した良い時代があった。今日では、どの地域が重要かと言う見極めが簡単に決定できない段階にきています。課題は個々の地域市場をどう攻略するかというよりも、グローバルに発展したネットワークを素早くどう活かすかという方向に変わりつつあります。

 今日では、グローバル化したネットワークを総合的にどう活用して独自の競争力向上に活かしていくかが重要と なってきています。このように自社のグローバル化の発展段階によって課題が変化してくるのです。

 9月8日(日本時間)2020年のオリンピック開催地が東京に決まった。
 高齢者の自分はその時に生きているかどうかはわからない。神のみぞ知るだ。しかし、今高校生、中学生の子供たちには、大きな夢が与えられた。
 大会準備の仕事はテキパキと進めねばならない。 更に日本の国際公約の一つとして、福島の原子力発電事故の復興、就中、汚染水対策がクローズアップされた。国がお金を出せば問題が解決するという単純な話ではない。国や電力会社が総力を挙げて取り組む優先度の高い課題だ。
 日本国内で当分仕事のなくなった原子力発電事業だが、事故対策は将来世界的に大きな需要のある事業分野だ。事故対策を技術面のみならず、総合的に完成させれば、世界への貢献も大きい。科学的にも、物理学、化学、土木建築・機械・地球工学、統計学等々個々の技術をシステムとして総合的に完成する必要がある。

 原子力産業が事故対策を重視して将来の発展にこれを活かすよう日本のため、世界のため技術システムを総合的に完成させ、課題を克服して、安全な東京オリンピックを世界に示し産業としても元気を回復していることを願っている。

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  今天接着前文,就「1.如何致力于全球化事业」,继续阐述「1.1 关于各个发展阶段的战略」。

② 其二是公司自身的全球化发展阶段决定这个阶段的课题



  关于此点,我想按照顺序从几个时代谈及。

  1980年代,官民的建设投资急剧减少,建设机械产业蜂拥杀奔海外市场。这招致欧美的抗拒,引发了贸易摩擦。当时如何对应贸易摩擦成为了我们拼力应付的课题。反倾销对策,与海外企业的协作,并购,海外现地生产等等,加上日元升值对策,成了这个时代的最重要课题。

  到1990年代,随着建设机械产业的海外比率升高,在现地国地方市场如何获得市民权又变成了重要课题。那时我们把现地法人的高层人事从日本人换成现地人,下功夫展示我们在现地重视CSR(Corporate Social Responsibility-企业社会责任)的姿态。

  继而到2000年代的今天,随着海外比率越来越高,如何开创日本本土的业务,以增加日本人的工作岗位又成为了首要课题。现今公司即便是在发展,雇佣和税金也多是归于海外事业的范畴。日本公司难道非要走向无国籍化吗?

  就小松而言,到2000年代后期为止,全球化市场各个地域的平衡状态良好,因此小松在各地都有过良好发展的时代。

  到了现今,已经很难弄清哪个地域更为重要了。因此就现今这个阶段的课题而言,与其考虑每个地域市场的攻略方法,不如尽快把重点转移到如何活用全球化了的网络系统方面上来。

  当今,如何活用全球化了的网络以提高独自的竞争力,正在展现出其重要性。正如上述这样,公司自身的全球化发展阶段决定着这个阶段新的课题。

  9月8日(日本时间),东京赢得了2020年的奥林匹克运动会举办权。
  作为高龄者的我到那时是否还活着,只有天知道了。但是对于高中生,中学生等孩子而言,这个消息无疑赋予了他们巨大的梦想。
  日本国内首先必须干脆利落地进行大会的准备工作。 进而,按照国际公约之一,福岛核电站事故的复兴,特别是污染水对策尤其成了一个需要大写特写的课题。 这并非国家出钱就能解决的单纯性课题,无论对于国家还是电力公司而言,都是个需要全力以赴,努力解决的第一优先课题。
  当前,虽然核电发电事业在日本国内已无潜力可挖,然而事故对策却是一个在未来世界拥有巨大需求的事业领域。如果日本不仅技术性地,而是综合性地完成一套事故对策,则必将对世界做出巨大贡献。这项工程需要科学性地进行,综合应用物理学,化学,土木建筑・机械・地球工学,统计学等等各门学科的技术,去系统性地完成这套事故对策。

  我希望,核电产业从今把重点放到事故对策方面,为了日本,也为了世界,综合性地完成技术系统,克服难题,以保证东京奥林匹克运动会得以安全举办,并以此展示日本产业正在恢复活力的途中。

2013年9月18日水曜日

グローバル化段階ごとの戦略(続き1)-全球化各個発展段階的戦略(続1)

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今日は、前文「1.グローバル化とどう取り組むか」の「1.1 発展段階ごとの戦略」の続きになります。

(2) グローバル化の発展段階により課題が異なるという意味は二つある。


①第一はグローバル化そのものの変化のスピードが速くなり、金融の比重が不適当な位高まったことに起因している。


具体的に言えば、グローバル経済が変質し、転換期を迎えている。産業の立ち位置で経済のグローバル化を見つめてきた私は、産業と金融の関係が変わり、金融に産業が引きずられる実態に悩まされ続けてきた。  エンロン危機の裁判記録のひどさに触発されて出版した自著「日本型ハイブリッド経営」(2010年9月 中央経済社)の序文にこう書いた。“...もともと金融と産業は相互に補完する関係を保ちながら同時に発展してきた。ところが、金融資本市場は、人間としての感情や産業の実態と遠く離れてこの補完関係を顧みずに今日の巨大化高度技術化へと発展した。金融と産業の相互依存関係についても何らかの修正、手直しが必要ではないか...”

最近読んだロナルド・ドーア「金融が乗っ取る世界経済」(中公新書 2011年11月)の内容は表題そのものの分析だ。

2013年9月12日の日本経済新聞 経済教室の櫻川 昌哉 慶応大学教授の論文には“金融危機の要因はバブルと巨大銀行の出現”とある。

日本のアベノミクスや中国のリコノミクスもいずれ、日本と中国の経済発展段階を変化させることによりグローバル経済を変化させることになるだろう。合わせて金融と産業の相互依存関係を修復できるように願っている。

G8の市場が大半であった時代からBRICS或いはG20など新興国を含めた市場の重要性が飛躍的に拡大したのは、つい最近のことです。

1956年日本製品の輸出から始まり、技術提携、合作の時代を経て、コマツは1990年代後半、中国での油圧シヨベルの現地生産を開始した。現地法人 小松山推の開所式で、私は中国語で“2000年に2000台の販売を”と決意を述べた。その後の中国経済の発展は2000台どころか20000台に近ずいた。4兆元の大投資の余波でこの急スピードの調整を余儀なくされ、販売は急減した。2013年後半にかけてようやく需要持ち直しの気配がみえてきた。地域市場の事情だけでなくグローバル市場のローカル市場への作用・反作用の影響が大となって来たのです。(続く)

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我在前文就「1.如何致力于全球化事业」,从「1.1 关于各个发展阶段的战略」开始了阐述,今天续写下文。

(2) 全球化不同的发展阶段产生不同的课题,这句话有两个含义


①其一是全球化自身的加速,这种现象起因于膨胀得不成比例的金融市场


具体而言,全球化经济变了质,正面临着转换期。惯于从产业角度关注经济全球化的我,一直被产业和金融关系的变化,也就是产业深受金融影响的实态所困扰。看了安然危机裁判记录,其严重状态刺激我在自著≪日本式混合型经营≫(2010年9月 中央经济社出版)的序文里这样写道:“......金融和产业本是相辅相成,同时发展的。然而,金融资本市场却远远偏离人类的感情以及产业的实态,弃这种相辅相成的关系于不顾,独自发展到今天这种高度技术化的状态。我认为,金融和产业的相互依存关系需要得到修正,以回归正常状态。......”
最近我阅读了英国社会学者罗纳多·多尔(Ronald Dore)的≪金融称霸世界经济≫(Finance Taking Over the World Economy)(中公新书 2011年11月)一文,内容正是针对其标题的分析。
2013年9月12日的日本经济新闻经济教室栏目刊载了庆应大学教授樱川 昌哉的论文,其中也有“金融危机的主要原因为泡沫经济以及巨大银行的出现”的论述。
我想,无论是日本的“安倍経済学”还是中国的“李克強経済学”,随着日本和中国经济发展阶段的变化,都会对全球经济的变化产生影响。我希望两国能在经济上携起手来,修复失调的金融与产业之间相辅相成的关系。

从G8占据大半市场的时代,到BRICS或者说是G20等等时代,随着新興国纷纷参入,近年来全球化市场随其飞跃发展壮大,越来越显示出其重要性。

小松从1956年输出日本制品开始,历经技术提携,合作的时代,于1990年后期在中国开始了油压铲土机的现地生产。 在小松现地法人小松山推的开业式上,我用中文表达了我的决心:“在2000年达到销售2000台”。其后应中国经济发展所需, 何止2000台,我们销售了将近20000台。之后受高达4兆元巨额投资的影响,小松不得不对如此迅猛的投资生产规模进行调整,销售也随之大幅回落。 到2013年后半年,市场需求终于渐现回升的趋势。这并不完全起因于地域性市场的变化,而是起因于全球化市场状况的变化,是来自于全球化市场对局部性市场逐渐强大的作用以及反作用的一种表现。(续)



2013年9月11日水曜日

グローバル化段階ごとの戦略-全球化各個発展段階的戦略

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 今回からは、自己紹介を終わりにし「グローバル化とどう取り組むか」という本題に入りましょう。

 まず、第一声「失敗は成功の母」と言いたい。
 これはありふれたことわざだからご存知でない方はいないだろう。
 特に大失敗を経験した方々は骨に刻むほど分るに違いない。

 しかし、人生やビジネスの世界では失敗は付き物。これだけの覚悟をしておけば、どんな失敗をしても立ち直れ、同じ失敗を繰り返さないように、失敗からたくさん学び、成功するのです。

 輝く成功を収めた小松の歴史は、まさに「失敗は成功の母」ということわざの裏付けです。

 では、小松の失敗が何を教えてくれたのか、下記の通り簡単に述べます。

1 グローバル化とどう取り組むか


1.1 発展段階ごとの戦略


(1) グローバル市場の過去、現在の状況は発展段階ごとに異なっています。

 世の中の変化が競争相手であり、つまり真の競争相手が同業他社でなく世の中の変化である。これは小松の歴史に教わったもので、私はずっとこう言い続けてきた。

 したがって、グローバル化を目指す日中の民間企業は、同業他社との競争に明け暮れるだけでなく、世の中の変化におくれを取らぬよう注力することが肝要です。

 それにも拘わらず、取り組む姿勢についての私の考えは孫子の次の教えを学ぶことが肝心ということである。

 彼を知りて己を知れば、百戦して殆うからず。彼を知らずして己れを知れば一勝一敗す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆うし。

 以下の通り、グローバル市場で小松の失敗から成功の事例にものを言わせよう。

 1960年代、小松がソ連に進出したが、シベリアのマイナス60度の耐寒仕様の商品テストが不十分のまま販売して客先の不評を買った経験や、1970年代米国市場に初進出したが、広大な全米に代理店網を張り巡らし兵站が実力以上に伸びきって客先サービスが不十分となった大失敗により一旦撤退を余儀なくされたこと、などはシベリアやアメリカ市場に対する無知と己を過信する無鉄砲の報いであった。

 その後、小松が失敗の要因を分析し、全世界のマイナス60度からプラス50度までの気候条件、砂漠、岩盤、永久凍土などの土壌を研究し市場ごとの商品仕様を標準化して臨んだり、国ごとの歴史、地理、文化、社会など地域研究を社内で充実して戦略、戦術を討議するマーケテイングの水準を上げて成功への道が開けた。(続く)

----以下中国語----

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  从这次开始,随着自我介绍的结束,博文进入「如何致力于全球化事业」之正题。

  首先我第一句想说的话是“失败是成功之母”。
  这是个老生常谈的成语,因此估计没有人不知道。 特别是经历过大失败的人,不仅仅是知道,而且一定是刻骨铭心地明白其中滋味。
  然而,在人生途中,在商业的世界里,失败总是如影随形。只要做好了这种精神准备,那么无论被什么样的失败击倒,我们都能重新爬起来,并为了不被同样的失败击倒而从失败中吸取教训,踏上成功之路。

  我想说,获取了辉煌成功的小松历史,便是“失败是成功之母”这个成语的绝好印证。

  那么,小松曾经历的失败给了我什么样的启示呢?下面就此简略地展开我的阐述。

1.如何致力于全球化事业


1.1 关于各个发展阶段的战略


(1)全球化事业的过去以及现在的状况,根据发展阶段而有所不同

  世事的变化是企业的竞争对手,就是说,真正的竞争对手不是同行业的其他企业,而是世事的变化。这是我从小松的历史中学到的知识,已经成为了我的一贯主张。

  因此我认为,对于以全球化为目标的中日民间企业来说,不应该一头扎入与同行企业的竞争中出不来,而应该致力于怎么做才不会被时代所淘汰,这才是至关紧要的事情。

  其次,则是不可拘泥于此,关于该怎么做才能摆正姿态,我认为领悟并在实践中活用孙子下面的教诲至关重要:
  知己知彼、百战不殆;不知彼而知己,一胜一负;不知彼不知己,毎战必殆。

  下面我想举例来展示小松在全球化市场中从失败到成功的历程,让事实说话。

  1960年代的小松,曾在进入苏联市场之初,将没在西伯利亚零下60度环境下进行过充分耐寒性能测试的商品投入市场,结果当然未能赢得客户。 另外,小松还在1970年代进入美国市场之初,曾在广大的美国各地设立了星罗棋布的据点,结果因为网拉得太大,超出了实力,不能为客户提供充足的服务,最终导致不得不一旦撤离这些据点。 小松的这类失败,起因于对西伯利亚以及美国市场的无知,也源于对自己的过信,结果当然是鲁莽行事,自食其果。

  后来,小松分析失败的要因,对全世界从零下60度到零上50度地区的气候条件,沙漠,岩磐,永久性冻土等各类土壤展开研究,对不同市场的商品规格实行标准化;并针对各国的历史,地理,文化,社会等方面充实公司的地域研究体制,激活战略,战术的讨论,提高相关营销水准,终于踏上了成功之路。(续)