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2017年6月10日土曜日

1杯100万ドルのウォッカ商談~無謀な真似をせずに...

中国語の翻訳者として、安崎会長の中国語の本を「三国」にたとえるなら、すでに中国で出版された「聚变」がかたい経済経営理論的な内容が多くて「三国志」だと言えて、これから中国で出版予定の「播种梦想」(仮称)が面白い部分がかなり増えたので「三国演義」だと言いたい。特に手をたたいて快哉を叫んだ内容がありました⇒「1杯100万ドルのウォッカ商談」。著者の許可をいただいて、シェアしましょう。ただし、ご注意頂きたいのが、コマツが旧蘇連でCATと壮絶な戦いを経て、売り手市場を作り上げたことが背景でしょうから、無謀な真似をせずに・・・

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...ソ連での契約調印後は、おきまりのウォッカ・パーティだ。何度かウォッカを飲んでいる内にわかってきたのは、私は6杯までは正気を保てるが、7杯で意識不明になってしまうということだった。7杯飲んだときは、必ずひっくり返ってしまい、ベッドの上で朝を迎える結末になる。服は着たまま、靴も履いたままという格好だ。
飲めないウォッカを無理して飲むうちに、体調を崩した。このままの生活をしていると、身体を悪くするか、仕事を辞めるかの選択となってしまう。ある日、無理矢理飲ませようとする商談相手に、「もう飲めない。これ以上飲ませるなら、次からの商談では1杯100万ドルの値上げをするぞ」と脅かした。相手も酔っているので、「OK、OK。いいから飲め」としつこく強要した。仕方がないので、無理をして飲み、いつも通りひっくり返ることになった。
 次の商談で価格を合意した後、「ところで、前回のウォッカ代を足してもらおう。あと100万ドル払え」と大人気なく、しかし断固として100万ドルの上乗せ交渉をした。当然、相手は拒否する。しかし、私も引き下がらない。2日粘って、結局100万ドル追加での契約調印に成功した。
 この100万ドルが、私のものになるわけではなく、当然会社の売上高となるのだが、当時の日ソ貿易担当で、こんなことをした日本人はいないだろう。その後、相手も私には「飲め、飲め」の無理強いはしなくなった。まさに100万ドルの威力だ...

1杯让谈判增值100万美元的伏特加~请勿盲目模仿...




作为中文译者,如果用三国来比喻安崎会长的中文书,那么已经在中国出版的《聚变》因其较难啃的经济经营理论方面的内容较多可喻之为《三国志》,而今后预计在中国出版的《播种梦想》(假定书名)里妙趣横生的内容大大增多,因此我想将它喻称为《三国演義》。里面有一段特别让我拍手称快的内容⇒《1杯让谈判增值100万美元的伏特加》。获得著者许可,分享如下。不过需要注意的是,安崎会长当时敢于如此行事是因为小松在苏联经过了与卡特彼勒之间你死我活竞争之后,打造出了卖方市场吧,因此谨防盲目模仿。

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...与苏联方签订契約之后,按照惯例举行了伏特加酒宴会。喝过几次伏特加后,我已经清楚自己的酒量,通常喝到6杯还能保持清醒,而喝到第7杯就会意识不清,喝完第7杯的结果必定是穿着衣服、鞋子就翻倒了,躺在床上直到第二天早上才能清醒过来。
 喝不了伏特加,却勉强喝,以至于喝坏了身体。如此下去,总有一天我将不得不面临喝垮身体还是辞掉工作的两难抉择。有一天,我威胁向我强行劝酒的商谈对手说:“不能再喝了。你如果硬要我继续喝,下一次商谈时提价,1杯算100万美元”。对方也已经醉了,继续不罢休地强行向我劝酒:“OK、OK。喝吧”。没办法,我只好勉强喝下,与通常情况一样,喝翻了。
 下一次商谈中双方就价格达成合意后,我像犯了孩子脾气似地、却毅然决然地向对方交涉加价100万美元:“话说,上次的伏特加费用加上吧。你得付100万美元”。当然,对方拒绝了,但是我却也不依不饶、绝不相让。你来我往斗了2天,结果是我成功地让对方加上100万美元、签订了契约。
 这100万美元当然不是进入了我的腰包、而是计入公司的销售额里。当时的日苏贸易担当里,除了我应该没有第二个人干过这样的事情。那之后,商谈对手再也不对我强行劝酒了,100万美元之巨大威力真是不容小觑...



2014年8月19日火曜日

コマツ第8代社長は神様のご任命? ~ 笑えたお話

本研究会安崎暁会長がご友人と共著した「日本型ハイブリッド経営」の中の安崎会長執筆部分の中国語アップグレード版「聚变」が8月に上海で出版されました。

 本書の編訳途中、安崎会長のコマツへの入社のきっかけを明らかにする必要が出てきたので、メールでご確認しました。 当初、大変感動的なお話しを期待したのですが、ご回答を読みながら、感動と言うどころか面白くて噴き出しました。一言で言えば神様の仕業だというしかありません。

ご回答をそのまま下に貼り付けましょう。

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コマツ入社はまったくの偶然で特に努力などはしませんでした。
高度成長期直前の当時、トヨタ、ホンダ、ソニー、コマツなどは現在のような大企業ではなく、それほど人気のある就職先ではなかった。学生の就活も今ほど大変ではなかった。
面白そうな会社を探してみるかという程度の軽い気持ちでした。 どんな業種が将来の日中経済関係で伸びるかという関心は持っていましたが、それらの中からコマツにしたのは全くの偶然です。入社が決まったその日は、大手町ビルの先輩を尋ねる用があり、用事が終わった後廊下で数名の同級生に会いました。話を聞くと当時本社が大手町ビルにあったコマツの入社試験面接にこれから行くのだ、昼飯つきだ、おまえも来ないかと誘われました。誰の紹介もコネもなしです。腹も減っていたので有難いとついて行ったら、面倒もなく昼飯を御馳走してくれて、食後すぐ面接となりました。日本経済の将来についての議論を面接官として、帰宅したら、夕方会社から採用内定の電報が来て10月の正式入社試験(ペーパー・テスト)を受けろとありました。
何かの偶然、運というめぐりあわせでコマツに入社が決まり会社の売上高が50年間に200億円から2兆円の成長を遂げる仕事に携わることができました。多くの先輩、同僚、後輩社員の共同努力でコマツが中国のみならずグローバルに発展する成長期に私も一員として 参加できたのは幸運でした。

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笑えましたか?神様、もっと多くの方々へお恵みを!

-----以下中文-----

小松第8代社长是上天的任命? ~ 令人发笑的故事


本研究会安崎晓会长与友人的共著「日本型ハイブリッド経営」一书中安崎会长执笔部分的中文升级版「聚变」于8月在上海出版了。

在本书的编译过程中,有必要弄清安崎会长进入小松的契机,于是我发了邮件去确认。 曾期待着听一个很动人的故事,然而读着会长的回复,别说感动了,倒是觉得有趣而忍不住发笑。一句话,只能说那是上天的旨意。

下面就将会长的回复原封不变地贴上。

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进入小松,纯属偶然,我并没为此付出过什么特别的努力。
在高度成长前的当时,丰田,本田,索尼,小松等都还未成为现在的大企业,在求职者看来也不那么人气。学生的求职活动也不如今天这么艰难。
当时我也就是有点随便找找有意思公司的心情。虽然关心什么行业会随日中关系的改善而发展,但是决定进入小松纯属偶然。记得决定进入小松那天,我有事去大手町大楼见一位前辈,办完事后在走廊里碰上几位同班同学。与他们交谈得知,他们是去当时小松本社所在的大手町大楼参加面试,并说还提供午餐呢,一起去吧。没有谁的介绍,没有任何人际关系。正巧我肚子也饿了,就和他们一起去,顺便吃了午饭后接受了面试。面试内容是和面接官就日本经济的将来进行了讨论,回家后的傍晚就接到小松公司采用内定的电报,电报通知我参加10月份的入社正式考试(笔试)。
进入小松可以说是个偶然,机缘凑巧的事情,之后让我有幸在50年间,在小松从年销售额200亿日元增至2兆日元的成长过程中有所建树。小松在包括中国的全球化成长期里,我和众多前辈,同僚以及后辈员工共同努力,作为其中一员参与建设小松的工作,真是一大幸事。

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您笑了吗? 上天啊,请赐予更多凡人以恩惠吧!



2014年5月16日金曜日

企業の真の競争相手は同業他社ではなく、世の中の変化だ(続き)

前文の続き---ロシアダイアモンド鉱山に行ったの後の話です。

1980年ごろのシベリアの空の旅は不便だった。10月の寒くなりかけたころ、日本からモスクワに行き、イルクーツク経由ヤクートに行った。雪が降ると天候次第で時間の予定が定まらない。イルクーツク空港で仮眠かと覚悟したら、すぐ出発だと案内の人に言われ、飛行機に乗りかえた。後で聞かされた話では、我々外人客を乗せるため、ロシア人の客を強制的に降ろしたらしい。申し訳なかったが、遠慮しているといつ乗れるか分からない。

ダイヤモンド鉱山は、朝日新聞の写真に出た如く巨大。ゲストハウスのまわりは堀がほられ、上げ下げできる橋がかかっていた。外国人が自由に出入りできない仕掛けとなっていたのだ。技術者は朝宿舎をバスで出て、夕方宿舎に帰る単純な毎日を半年過ごした。娯楽施設は何もなく、土日たまにロシア語の映画館に連れていくだけ。私が到着したら、滞在中の技術者が口々にひどいところだ、と泣き出さぬばかり。

早速相手の鉱山のお役人たちとの会談に入る、テーブルにダイヤの原石を数個出して、これが大型ダンプ1台に2個も入っていれば、オンノジだという。有難うとポケットにしまったら、怖い顔をした別の係官が飛んできた。返せというから、妻へのお土産を別に買わなくてはならないと笑って返した。係官はあげたのではなくサンプルとして遠来の客に見せてあげたのだと真面目な顔で説明する。翌日作業現場を調査する時、身体検査後、先方の作業服と長靴に着かえさせられた時にいわれた。”貴方は冗談が好きらしいが、現場でしゃがんでは絶対にだめですよ、ライフルで射殺されますから”と。監視員が見張りの塔に立ちライフルで狙っている。流石にダイヤを拾えなかった。

最後の交渉で感心したのは、決着ぎりぎりの最後に出てきた鉱山長の人物人柄。テキパキと問題点の協議に応ずる。いずれ本省に戻り出世の階段を上がっていくのだと周りの人が一目置いている。世界最大級のダイヤ鉱山長だからこの人は後に本当に偉くなった。

ノメンクラツーラというロシア語があるが、前途有望な若い官僚を難しい仕事をこなさせて、次のポストに進ませる人事教育の仕組み。中国の共青団の大幹部育成の人事コースとか、日本の昔の大蔵省のエリ-トが地方の税務署長として修業したようなものかと思った。

今になって顧みれば人は出張や旅行を通じて、いろんな人とコミュニケーションを取りいろんなことを経験することによりグローバルな視野がだんだんと身についてくる。そして世の中の変化~この"企業の真の競争相手"と上手く付き合えるようになる。これこそ旅の大きな醍醐味の一つと言えよう。

-----以下中文阅读-----

接着上次,说说我到俄国钻石矿山后的事情。

1980年前后的西伯利亚的空路还不怎么畅通,在正转寒的10月,我们坐上从日本飞往莫斯科方向的航班,经由伊尔库茨克抵达雅库特。途中遇雪天航班停飞,复航全凭天气状况。我们在伊尔库茨克正想小睡片刻,却接到马上出发的通知而登上了飞机。之后听说为了让我们外国人登机,好像强行拉下了俄国客人。虽然觉得抱歉,不过倘若谦让的话就难说什么时候才能登机了。

钻石矿山正如我在朝日新闻上见到的照片展示的那么巨大。招待所周围挖了沟壑并架着便于上下的桥梁。其构造让外国人难以自由出入。技术人员们乘坐公交车早出晚归,过了半年单调枯燥的日子。没有娱乐设施,唯一的乐趣是周末偶尔会有人来带着他们去看场俄语电影。我到了后,面对的是连连诉苦的哭丧着脸的技术员工们。

我与矿山有关负责人之间的会谈很快开始了,对方掏出几个金刚石放在桌上说要是一台大型翻斗车能进2个就值了。我说了声谢谢就把金刚石装入口袋,顿时另一位脸色吓人的担当冲了出来要我交还,我一边笑说得另外给太太买礼物一边把金刚石还给了他。那人一脸严肃地解释这不是送给你的,而是作为样品给远方来的客人看的。第二天在调查施工现场时,接受体检后换上了他们提供的工作服和长靴并被告知:“你好像喜欢开玩笑,不过在现场可不能蹲着,会被步枪打死的”。岗哨塔里站着荷枪实弹的监视员,那确实不是能捡钻石的氛围。

在最后的交涉工作中,在达成协议的最后阶段出场的矿山长的人品让我尤其敬佩。这位矿山长对相关问题的协议工作进行得干脆利落,周围的人都对他另眼相看,认为他有天必会回到原来的单位并获取高升。事实上,这位世界最大规模钻石矿山长后来确实得以高升,成了了不起的大人物。

俄国有所谓的要职人员登用制度,那便是安排年轻有望的官员去艰苦的环境中积累工作经验,为以后的提升而实施的人事教育制度。我觉得这个制度与中国共青团以培育大干部为目的的人事课程以及从前日本财政部派遣精英们担任地方税务署长的修业制度有异曲同工之妙。

回顾这些往事,我认为在出差或者旅行中通过与各类人物的交流以及对各种事物的体验都能对人们全球化视野的形成发挥潜移默化的积极作用。进而让我们能与世界的变化~这个"企业真正的竞争对手"和平共处。这可说是旅行的一大妙趣之一吧。

2014年5月9日金曜日

企業の真の競争相手は同業他社ではなく、世の中の変化だ

今年4月にコミュニケーションの話をしようとして「韓国旅行、初めての海外旅行」という想い出話をした。

 ネット交流が盛んな今日でも現実世界での交流が欠かせないと思い、今日も少し逆戻りしたい。国内外の出張や旅行も現実世界での交流活動と言える。昔から「企業の真の競争相手は同業他社ではなく、世の中の変化だ」と言い続けてきた私は、出張や旅行を通して常にこの世の変化を実感し、なおさらこの"真の競争相手"との付き合い方を見直そうとした。

韓国旅行と同じ年の1970年、社命で3週間朝から夕方まで特訓で習ったロシア語の成果を試すために横浜からソ連船に乗りナホトカに行った。新聞社の友人と同行したためか、船で来た理由が疑問だったのか分からないが、下船まで5時間我々の荷物が徹底的に調べられた。私が秘密警察(カーゲーベー)の研究を始めるきっかけになった。その後シベリア鉄道に乗ってバイカル湖まで足を伸ばした。車中で習いたてのロシア語が一向に通じないのにがっかり。以後30回以上昔のソ連に仕事で出張したが、この時の初旅行が最も記憶に残っている。

1970年、ソ連時代のモスクワに事務所を開設した。スターリン専制記念のような第2次大戦終了後の独特の建築様式のウクライナホテルの一室が最初の事務所だった。当時のソ連は外貨不足だったが、インフラ建設、資源開発に建設・鉱山機械は必需品。ソ連国産建機の信頼性が今一だったこともあってソ連政府は、アメリカのCAT、日本のコマツを競争させて外国産建機を買い付けていた。穀物豊作の年は買い付け予算が増える。不作の年は外貨が穀物輸入に食われて建機までまわってこない。市場調査は気象予測、農産物収穫予想が重要だった。

当時の日本政府の与信政策は円建ての5年ものサプライヤー・クレジットのみ。ソ連は1ドル360円の固定相場時代にも拘わらず、円建てを好まず、5年間の為替リスクを懸念しドル建ての与信を要求した。時により商社と組んでこの要求に応じた。円建てだとソ連側が、ドル建てだと日本側が為替リスクを抱える。360円の固定相場が変動制に変わる寸前の時、円建ての未決済残高を抱えるソ連に海外でドルを調達し再貸付して円を繰り上げ返済させ、相手の為替リスクを解消させてあげたこともあった。ドル建ての自社の私的与信をソ連政府に与えた時は、5年の与信期間中返済されるかどうかの心配と、自社の為替リスク懸念の両方で、時間のたつのが大変長く感じられ、命が縮む思いをした。

この時以来、自社独自の与信をやめ、商社に頼むことにした。手数料は高いが、ソ連相手にリスクを知恵の足りないメーカが抱えるのは大変だった。お陰でソ連がロシアに変わるころのカントリーリスクには無傷ですんだ。年間2000億円の商いの年もあったからこの一部でも取りはぐれていたら事件だった。担当部長時代の話だが、不良債権に悩んでいたら私が役員になることもなかっただろう。

商品のクレーム処理にも悩まされた。2013年8月17日の朝日新聞の一面の写真を見てびっくりした。ロシア サハ共和国 ウダーチヌイのダイアモンド鉱山が極東ダイヤの宝庫として記事になっていた。この鉱山が最初に買った大型ダンプ、ブルドーザはコマツ製。ヤクートの北極に近い最果てにこの鉱山が位置している。ダンプ道路の管理が悪いのを棚に上げて壊れるのは機械が悪いとクレームを言いたてる。現場を見せろと要求しても当時のソ連は、鉱山は国家機密で外人は入れられないとの一点張り。会社のサービス技師を現地に派遣する交渉に2年を要した、客先の権限外の秘密警察、治安当局の許可がなかなか下りなかったのだろう。何とか話をつけてクレーム保証部品を送り技師を派遣することにした。行く技師たちはシベリアの果てに行くのかと出発前に家族と水杯の別かれ、日本人にはシベリア抑留のつらい話が記憶にある。先方が特別に作ったゲストハウスに滞在半年。途中で営業責任者としてこの鉱山に行った。(続き)

-----以下中文-----

今年4月我在「韩国旅行、我的初次海外旅行」一文中提及了交流这个话题。我想在网络交流盛行的今日,现实世界里的交流也是不可或缺的,今天也想回到这个话题。国内外出差以及旅行都可说是现实世界的交流活动。我从以前一直主张「企业真正的竞争对手并非同行他公司,而是世事之变迁」,我也确实总能在出差和旅行中真实地感受到这个世界的变化,并由此调整企业与这个"真正的竞争对手"之间的相处方策。

和韩国旅行同年的1970年,我受公司之命从横浜乘坐前往纳霍德卡的苏联船,这是一个能让我展示从早到晚连续3个星期俄语特训成绩的机会。不知道是因为我与报社的朋友同行,还是对我们为什么乘船来的理由抱有怀疑,我们在下船前接受了长达5个小时的彻头彻尾的行李检查。这件事成了我研究秘密警察(克格勃)的契机。那之后我们乘坐西伯利亚火车去游览了贝加尔湖。失望的是在火车上我刚学的俄语一点也没能派上用场。之后我30多次出差去过俄国,这头一次的经历最为记忆犹新。

小松于1970年在苏联时代的莫斯科开设了事务所。最初的事务所借用了乌克兰酒店的一室,乌克兰酒店那2战后的独特建筑风格使它看似有点纪念斯大林独裁统治的风貌。当时的苏联虽然外币不足,而基础建设,资源开发却必须使用建设・矿山机械。那时苏联国产建设机械尚缺信赖性,因此苏联政府常让美国的卡特彼勒与日本小松相互竞争并乘机从购买海外的建设机械。他们在粮食丰收的年份里增加购买预算,而在欠收的年份里外币要用于进口粮食,就轮不到建设机械了。由此可见气象预测和农产物收获预测在市场调查工作中的重要性。

按照当时日本政府的信贷政策,可以利用的只有以日元为结算基准的5年期供应商信贷。在1美元兑360日元的固定汇率时代,苏联因担心5年间可能产生的汇率危机,不愿意用日元而宁愿用美元结算。小松审势度势,与商社联手回应了苏联方这个要求。以日元结算冒汇率风险的是苏联,以美元结算冒汇率风险的则为日本。在从360日元的固定汇率制转换成变动汇率制之际,对于尚有未清算日元帐务的苏联,小松甚至配合他们缓解汇率风险,那就是先在海外调度好美元后再次放款,其后为他们提供短缩日元还款期间的服务。我在为苏联政府提供这个以美元为结算基准的非官方政策的信贷方策时,非常担忧他们在5年的贷款期间能否还款以及本公司的汇率风险,我感觉这5年过得尤为漫长,甚至觉得自己可能会因此而短命。那之后我们停止了本公司单枪匹马的信贷方策,使用委托商社的方式。虽然需要支付高额手续费,作为缺少这方面知识的厂家来说,比勉强承受以苏联为对手的风险好多了。万幸的是在苏联转型为俄国之际,我们并没有在这场国家风险中受损。那时与苏联之间有些年度的年销售额高达2000亿日元,其中一部分回收不了就麻烦了。那是我担任部长时代的事情,若是卷入不良债卷问题可能就毁了我成为董事的前程了。

当时的我还疲于处理商品投诉事务。 2013年8月17日的刊载于朝日新闻一页的照片震惊了我。那是一则报道俄罗斯萨哈共和国乌达奇内的钻石矿山-极东钻石宝库的消息。这个位于雅库特靠近北极的最边缘地区的矿山最初购入的大型翻斗推土机就是小松的产品。俄国人最让我棘手的是,明明是翻斗车作业现场的道路管理太差,他们却能倒打一把,一口咬定是机械的问题。我们要求到现场察看,当时的苏联却坚持矿山因属于国家机密要地,不能让外国人进入。公司花费在派遣服务技师的交涉工作上就花了2年时间,好像因为客户方面没有相关权限,而秘密警察和治安当局的许可又迟迟下不来。最后总算谈妥,运去了他们索要的部件并派去技师。历史上不乏日本人在西伯利亚被扣留的事件发生,因此技师们在奔赴西伯利亚边际之前都与家人交杯酌水,依依惜别。技师们下榻于对方特别为他们建造的招待所,作为营业主管的我途中也去了这个矿山。(续)

2013年8月28日水曜日

安崎暁の非公式経歴(続き)- 安崎晓的一些没有记入正式简历里的经历(续)

ブログをご注目、ご応援いただきありがとうございました。
今日は、前回に続き私の非公式経歴をお喋りしたいと思います。

コマツの社員になって最初の数年間は修行の時代。
自分のやりたい海外事業ではなく、工場、日本国内営業の仕事を担当した。

工場では、一円のコスト、真の品質管理を学んだ。

国内営業では、販売店との共存共栄をどう実現するか?時にお客の稼働現場で未来建機の姿はどうなるかをお客、技術者と議論していた。

1960年代後半、様々な自動化を研究するコマツの技術者がいた。21世紀に花開いた世界大規模鉱山でのICT,GPS利用の自動化鉱山機械化システムの萌芽はこの当時にあった。諦めずにしつこく夢を追いかけた技術者の勝利。

2010年、三一重工の会長がコマツの後を追いかけるのが自社の戦略だと語るのを知った。
私が1970年代の若手社員のころCAT(世界一のアメリカ建機メーカ)に対抗するコマツの戦略を語る上司にこう言ったら怒られた。”余計なことを考えると間違えるから、CATの後を追いかけて差をどう縮めるかだけに当分集中した方が良い”。

海外の仕事をやってきて失敗の経験は数知れず。成功はそのあとやり直した努力の結果かさもなくば、幸運のおかげだ。

後にいろいろ紹介しよう。

いくつかのメニューをあげておきたい。


1.1970年代アメリカ進出の大失敗。

2.ソ連シベリア寒冷地でのブルドーザテストの失敗と成果。

3.1973年、日中国交回復・平和条約締結時、中国でのコマツブル国産化提案。
   人民服の中国技術者のハングリー精神に驚く。

4.1970年代産油国中近東での社員の苦闘。

5.アジアの販売サービス網づくり、学生時代の華僑研究が役にたつた。

6.アフリカ大鉱山への進出。

7.ヨーロッパとの貿易摩擦。

8.アメリカのダンピング提訴。M&A,米企業と合弁、その後の100%化。

9.海外現地法人。トップ人事の失敗と成功。

10.その他いろいろ。(続く)




------以下中国語-------

谢谢大家对我博文的关注和声援。

今天我将继续谈谈我的一些没有记入正式简历里的经历。

成为小松员工后,最初几年是我的修行时代。
当时让我担当的工作并非我希望的海外事业,而是工厂以及日本国内营业业务。

在工厂业务中,我从一日元的成本开始,学习了真正的品质管理。

在国内营业方面,公司该如何做才能实现与销售店的共存共荣?有时还站在顾客的立场上思考建设机械行业的未来,这些问题我也与顾客和技术者们进行了讨论。

1960年代后期,小松荟萃了从事于五花八门自动化研究的技术人员。21世纪世界各地大规模矿山利用ICT,GPS 而让矿山机械自动化系统开花结果,其萌芽则可以追溯到那个时代。这是不言放弃,苦苦追求梦想的技术人员们的胜利。

2010年,我得知三一重工的会长制定了以奋勇追赶小松为目标的战略决策。这让我想起了在1970年代,还是年轻员工的我,对于做出了与CAT(美国的卡特彼勒,世界第一建设机械厂家)一争高下的战略决策的上司说:制定超乎实际的目标会走错路的,我觉得目前我们还是追赶CAT以缩小差距为好吧。不过当时我这话却激怒了上司。

后来在海外业务方面,我经历了不知多少次的失败。成功则是跌倒后爬起来不懈努力的结果,也或许是幸运之星所赐。

以后会继续介绍。

先列出几个话题。


 1.1970年代进出美国的大失败。

 2.在苏联西伯利亚寒冷地区试验推土机的失败以及成果。

 3.1973年,中日恢复外交关系・和平条约缔结时,提议在中国实行小松推土机的
   现地国产化。身穿人民服的中国技术者对先进知识技术的渴求精神震撼了我。

 4.1970年代员工们在中近东产油国的艰苦奋斗。

 5.建立亚洲销售服务网,学生时代进行的华侨研究起到了作用。

 6.进出非洲大矿山。

 7.和欧洲的贸易摩擦。

 8.美国的倾销提诉。M&A,与美国企业的合并以及其后的资本100%化。

 9.海外现地法人。管理层人事的失败与成功。

 10.其他等等。(续)


2013年8月22日木曜日

安崎暁の非公式経歴 ‐ 安崎晓的一些没有记入正式简历里的经历

安崎暁グローバル企業発展研究会会長の安崎 暁です。
先日一回目のブログをご注目、ご応援いただきありがとうございました。

今日は、先日予告しました通り、私の非公式経歴を少しお喋りしたいと思います。

私は1937年生まれ、2013年現在76歳の元小松製作所社長、CEO。

好きな言葉は、”新陳代謝”、”忘己利他”、”苦進楽慎”。もうすぐ棺桶入りの年齢になったが、自分という人間の一生は、成功も失敗も紙一重の瞬間、どちらに転ぶかわからない微妙な転機の連続であったと感じます。これから何回かに分けてこれら瞬間の思い出をお話ししましょう。

1.10歳のころ


第2次世界大戦終了の直後、父親不在の一家5人が、食うや食わずの困窮の生活。それでも母親の楽観主義と親戚・学校の先生の支援で貧乏を苦にせず元気に暮らしていた。

女の先生に将来どんな仕事をやりたいかと聞かれた。さしたる考えもなく、政治家、外交官、と答えた。先生曰く、貴方は指導力が足りないから政治家は無理とのコメント。

これに反発したのか、ある日この先生の授業の時、クラスの男子同級生をそそのかして、授業中に教室から抜け出し近くの遊園地に集団で遊びに出掛けた。大騒動になった子ども版のストライキ。先生に指導力なしと烙印を押されたのに反抗した単なるいたずらだった。

50年以上たった同窓会でこの事件を覚えていた同級生曰く、おまえはうまく逃げ帰ったが、俺は男の先生につかまり大いに絞られたと。

2.中国とのかかわり


15歳位の時大衆小説家 吉川 英治の三国志、宮本武蔵、太閤記を読んだ。子供にも読みやすい本だった。中国にも多くの三国志があるが、日本でも古来各種の三国志がある。私がその後読んだ三国志は、羅漢中演義の翻訳版、陳舜臣・北方謙三・宮城谷昌光・伴野朗・安野光雅(絵本)のほか解説も数多い。それぞれ人物像が著者により異なる。最初に読んだ吉川本の影響で初めは諸葛孔明の知謀に感嘆したが、後に曹操、超雲にも興味をひかれるようになった。

高校生のころ李白、杜甫、白居易などの詩に触れて、漢文の授業が楽しみだった。
一橋大学では歴史、哲学、経済学を学び弓道部に属したが、英語の次の第2外国語は自然に中国語を選択した。

共産党中国政権が1949年に成立して間もなく当時の一般学生は中国への関心の度は薄かった。1学年750人の小さな大学だが、大半の学生はドイツ語、フランス語、スペイン語を第2外国語として選び、ロシア語を選択した学生は10人、中国語は6人と少なかった。東亜同文書院出身の熊野正平教授と中国人の2人の先生に教わりながら紅楼夢を読んだり人民公社・文化大革命などの最新報道の中身が理解できず首をかしげていたりであった。

学者を志すか、会社勤めをするか迷いながら学士入学をして社会学部と経済学部を卒業した。
結局学者を志す根性が足りず、実業の世界を選び、建設機械の小松製作所に入社した。
中国と関わりのある業種会社を選んだことに迷いはなかった。

当時私の選択の範囲は、鉄鋼、農機、建機、化学、海運、銀行、商社など。コマツにしたのは偶然の選択。先輩の国際貿易促進協会長 村田省蔵さんは1950年後半の当時”いずれ日本と中国との関係は飛躍的に発展する、学生は今から中国に関心を持て”と良く話しておられた。

会社に入ったばかりのころは、社長になるとは思っていなかったが、北京事務所長に早くなりたいと念願していた。(続く)

最後までお読みいただきありがとうございました。

-----以下中国語-----

我是安崎晓跨国企业发展研究会会长安崎 晓。
谢谢大家对我几天前第一篇博文的关注和声援。

按照第一篇博文预告,今天我将谈谈我的一些没有记入正式简历里的经历。

我于1937年出生,到2013年至今76岁,曾任小松制作所的总经理、CEO。

我喜欢的话有”新陳代謝”、”忘己利他”、”苦進楽慎”。现到了行将就木的年龄,回顾自己走过的人生之路,感觉成功与失败往往与我如影相随,甚至有过许许多多这二者仅仅差之毫厘,稍有不慎就会在哪儿摔个跟斗的瞬间,我感觉自己的人生就由这样的瞬间串联而成。接下来我就分几次说说这些瞬间的回忆。

1.10岁左右的时候


在第2次世界大战刚刚结束后,父亲不在家,一家5口人过着吃了上顿没有下顿的贫困生活。尽管如此,多亏乐观主义性格的母亲以及亲戚・学校老师的援助,我们没有以贫穷为苦,却过着乐道安贫的日子。
有位女老师曾经问过我将来想做什么工作。我不加思考就回答想做政治家,外交官。老师却说,你指导能力不足,当不了政治家。
似乎是反抗老师的说法,有一天遇这位老师的授课时,我鼓捣班里的男同学们,在她授课中离开教室到附近的游园地结队玩耍。那真是一场小孩子闹翻天的罢课运动。是针对老师给我打上没有指导能力烙印的反抗性的恶作剧。
在50年后的一次同窗会上,有个还记得这件事的同学说,你倒跑得快,我却被一个男老师抓住,被好一顿教训。

2.与中国的关系


在15岁左右的时候我读了大众小说家吉川 英治的三国志、宫本武藏以及太阁记。这些书对于孩子们来说也易于阅读。中国有许多版本的三国志,在日本从古自今也有各种版本的三国志。我那之后读的三国志,是罗贯中演义的翻译版,陳舜臣・北方謙三・宮城谷昌光・伴野朗・安野光雅(画册)等版本,解说也很多。各个版本所描写的人物形象也因作者不同而有所不同。受最初阅读的吉川版本的影响,我对诸葛孔明的足智多谋赞叹不已,但后来又对曹操,赵云产生了兴趣。
在高中时代,我接触了李白、杜甫、白居易等人的诗,上汉文课成了我的乐趣。
在一桥大学,我学习历史、哲学、经济学,还加入了剑术部,在选修外语课程时,继英语之外我自然而然就选择了中文为我的第二外语。当时共产党的中国政权于1949年成立后不久,一般学生对中国的关心度还很薄。那时大学的规模尚小,1个年级仅750人,大部分学生都选择德语,法语,西班牙语为自己的第二外语,选择俄语的学生10人,选择中文的只有6人。我一边求教于出身于东亚同文书院的熊野正平教授和2位中国人老师,一边阅读红楼梦,对人民公社・文化大革命等最新报道的内容却是难于理解,觉得不可思议。
对于自己是立志成为学者,还是进入公司就职呢,我在迷惘中进修了学士课程,从社会学部以及经济学部毕了业。
结果,由于成为学者的斗志不足而选择了实业的世界,进入了建设机械业的小松制作所。不过,在选择和中国有关行业的公司这点上我却没有过迷茫。
当时我选择的范围包括钢铁,农业,建设机械,化学,海运,银行,商社等等,小松是一个偶然的选择。我的前辈,国际贸易促进协会会长村田省藏先生在1950年后期曾说“日本和中国的关系迟早会有飞跃性的发展,学生们从今需要关注中国”。
我刚刚进入公司的时候,并没有想到成为总经理,而是一门心思想早日成为北京事务所的所长。(续)

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