引き続き、昨年9月に中国で出版された安崎会長の著作「夢を蒔く」(中国語版は、中国側出版社の主張により「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名となっています)の内容をピックアップして掲載いたします。
今日は「苦進楽愼」という部分になります。これは、去年12月11日開催された感謝の会の入場券として参加者へ配布された『感謝』と題された手紙に載せてあります---「私の好きなことば」として、・・・『苦進楽慎 苦しい時はとにかく前進あるのみ。調子の良い時は浮かれずに用心しろ』・・・
苦進楽愼---苦しい時はとにかく前進あるのみ。調子の良い時は浮かれずに用心しろ
両親の事を書いておこう。父親は、四国徳島の出身。幼少期に両親を病気で亡くし、父の姉と兄弟は大変苦労したという。それでも父は旧制中学校3年から、学費がいらない特待生となり、4年になるときに、これまた学費のいらない陸軍士官学校に入り、帝国軍人として勤務した。日中戦争に従軍し、終戦時に捕虜収容所に入れられ、終戦後しばらくして復員した。
このころの日本では、一定以上の階級だった職業軍人は、連合軍の公職追放令に引っかかり定職に就くことができなかった。だから、私の少年時代の我が家は、貧乏そのものだったが、父親の口癖は、「金は天下の回りもの」。実にあっけらかんとしたものだった。
母親は、四国阿波の徳島藩主の系統で、祖父、蜂須賀喜信の次女として生まれた。縁あって父と結婚した。昔であればお姫様に近い境遇だったであろうが、父の出征後に4人の子供を抱え、空襲を避け、疎開などの苦労の連続。父の復員後も、貧乏暮らしだったが、それを苦にする様子は見せなかった。子供の私から見ても、蜂須賀の家名を全くひけらかせず、父親第一の良妻賢母であった。私の幼少期には、父親の記憶はあまりないが、母親は、父親不在の戦時中でも、子育てが大変だったろうが、口には出さず、愛情深く、とても優しい母親だった。叱られた記憶は一切ない。
父親は、公職追放令が解除された後、警察予備隊、保安隊、自衛隊と勤務。陸将になり、東北方面総監を最後に除隊した。現役のころ、陽明学者で思想家の、安岡正篤の会合に出かけ、彼の指導を受けていたようだった。私は社会人となってから、父の話で記憶していた安岡の名前を思い出し、彼の著書を何冊か読んだ。彼の論のすべてに感心したわけではないが、『百朝集』という本に「六然」という文を見つけた。
中国の明時代末期の崔後渠という、王陽明と同時代を生きた学者で気節の人の言である
「自處超然 處人藹然 有事斬然 無事澄然 得意澹然 失意泰然」……自分に関しては、世俗にとらわれないようにすべし、人に対するときは、相手を喜ばせ気持ちよくさせるべし、何かをやるときは、すぐにやるべし、何もないときは、澄んだ気持ちを保つべし、得意なときでも、静かで安らかな気持ちを保つべし、失意の時でも、泰然自若と構えるべし。
という六つの「然」を並べ、「これができたら真の自由人である」と述べているのが気に入った。
コマツの役員になったころ、この「六然」を思い出したが、なかなかこのようには過ごせない。それでも、あるべき理想の処世として、時に口ずさんでいたものだ。コマツのグローバル化を陣頭指揮するとき、これに似た「苦進楽愼」という言葉をどこかで見つけた。「困難には、とにかく前に進め、調子のよいときには、浮かれずに用心して慎重を期せ」という程度に理解した。普通はこの逆の行動をしやすいものだ。
ピンチに動ぜず、バブルに浮かれずということを諭す「苦進楽愼」は、「自處超然 處人藹然」同様に、会社経営の節目、節目に私を鍛えてくれた言葉だ。
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