2018年7月22日日曜日

安崎暁先生を偲ぶ会が開催されました


2018年7月21日(土曜日)、安崎暁先生を偲ぶ会はご支援された日中交流雑誌「和華」編集長孫秀蓮さん主催によって開催されました。

小規模の会でしたが、参加者は安崎先生との思い出話をしたりして、日中国交正常化前から50年近く日中経済・文化交流の促進に力を尽くした日中民家交流家、日本経済及び社会に大きく貢献し国から藍綬褒章及び旭日重光章を受章された人物、12バージョン三国志を読んだスーパー三国ファン、引退後年間100回ゴルフを目標にしていた超行動派ゴルファー、去年晩期の癌が見つかり延命治療を拒否し12月に世界中の人々を励ました生前葬に当たる感謝の会を開催し、千人ほどの来場者と握手したりお別れの挨拶をされた非凡な安崎先生を偲びました。

2018年3月19日月曜日

安崎会長からの便り~癌との平和共存生活 日々是好日

安崎会長より、癌との平和共存生活を楽しんでいるとの嬉しい便りが届きました。ご同意を得たのでシェア致します。
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昨年12月11日に生前葬みたいな安崎 暁 感謝の会を催してから3か月以上が経ちました。
病院に通っての延命治療をやめましたので、医者の言う通り、私は昨年の内にこの世とはオサラバするものと覚悟していました。まさか新年を迎え今も生きているとは自分の想像外のことでした。
家内のケア、食事・免疫療法にある程度従い、自分としてもストレスゼロの癌との平和共存生活を楽しんでいるおかげかも知れません。胆汁をパイプで体外に排出し、痛みは薬で抑えながらの生活ですからまだ先のことは分かりませんが、食欲がある間は日々是好日と毎日を過ごせそうな気がしています。
食欲と言えば、81年の私の生涯で忘れられない食べ物の有難さの記憶が三件あります。
その一、1945年戦火の迫る東京から家族と別れて、学校ごと新潟へ集団疎開したその日に汽車の中で食べたこの世の別れのような母親手作りの“ラスク”の美味しかったこと。お互いに生きて再会しようという望みが詰まっていたのだろう。
その二、1984年胃と十二指腸潰瘍手術で胃の三分の二を摘出した時、脂肪太りのため手術が難しく時間がかかった。、全身麻酔からさめて、初めて口に入れた白湯の格別のうまさ。どんなご馳走も叶わない。
その三、1971年、冬のソ連出張時、野菜不足で慢性ビタミン不足。しおれた人参、ジャガイモ、玉ねぎの他は何もない、ないないづくしのモスクワ事務所の夕食時、アルメニアへの出張から帰ってきた商社駐在員が持ち込んできてくれたアルメニア大根1個、これを大根おろしにして皆で食べた。新鮮なビタミンの味。
世界中のご馳走を食べてきただが、この三つはどんなご馳走より忘れられない私のグルメの記憶である。
アルメニアの大根の話を当時の商社の友人と感謝の会で語り合った。
どこをどう都合したか、彼からアルメニアの大根ですよ、と私の自宅にこれが届けられた。45年前のビタミン補給の記憶とシベリア開発のプロジェクトに携わった商社の友人達との懐の深い付き合いを掛け合わせて大根おろしを美味しく味わった。
彼らのことを自他共に商社在籍の“コマチスト”と称していた。彼らのおかげでコマツの壮大なシベリア開発の事業が開けていった。
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最近收到安崎会长的来函,得知他与癌和平共处、愉快地生活着。征得他的同意,特分享如下。
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自去年12月11日我举办类似于生前葬的安崎暁感謝会之后,3个多月过去了。
那时因决定不去医院接受延命治疗,医生说我活不到来年,对此我已经做好了精神准备。然而我却不仅活过了新年、并且现在还活着,实在出乎自己的预料。
我在一定程度上遵从妻子的饮食、免疫疗法,也或许是自己能零压力地与癌和平共处、愉快地生活也见了效。现在胆汁通过胆汁管排出体外,疼痛通过止疼药抑制,虽说这样的日子前景难料,但尚有食欲的日子给了我“日日是好日”的感受。
提起食欲两字,我不由想起了在我81年的人生之中难忘的三宗可贵记忆。
其一是在1945年从战火迫近的东京和家人分开,随学校集体疏散去新潟的那天在火车上吃的母亲亲手做的有点生离死别味道的脆甜饼干,里面或许是饱含了母亲互相能活着再见的切切心愿,好吃极了。
其二是1984年在胃及十二指肠溃疡手术中被摘除了三分之二的胃之时,脂肪过多令手术时间延长。当我从全身麻醉中醒来,那入口的第一口白开水的特殊美味,令我感觉胜过世间所有的美味佳肴。
其三是1971年,冬季出差苏联之时,由于蔬菜不足导致了维生素的慢性不足。除了枯萎的胡萝卜、土豆和洋葱,几乎没有其他东西可吃。在这山穷水尽的莫斯科事务所,有天晚饭时,大家把从亚美尼亚出差归来的商社驻在员带回的1根亚美尼亚萝卜擦成萝卜泥,美美地享用了一餐。那新鲜的维生素的味道至今还口留余香。
虽然尝遍了全世界的美味佳肴,然而这三种美食却胜过任何美味,成了我一生难以忘怀、回味无穷的美食记忆。
在去年的感谢会上,我和当时的商社朋友还谈起了亚美尼亚萝卜的故事。
没想到那之后,不知道他费了什么周折竟将亚美尼亚的萝卜送到了我家。我将45年前补充维生素的记忆以及与参与西伯利亚开发项目的商社朋友们之间的深交记忆参合在一起,再次品尝了美味的萝卜泥。
他们都被称为、也自称为身在商社的“小松主义者”。承蒙他们的努力,小松壮大的西伯利亚开拓事业得以成功展开。
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2018年2月4日日曜日

安崎暁会長近況レポート~闘病真っ最中


 末期肺癌、肝癌、胆囊癌にかかった本研究会の安崎暁会長が去年12月11日に千人位参加者規模の生前葬に当たる感謝の会を行ってから1ヶ月以上立ちました。

 放射線治療を断った安崎会長は、もっと一緒に行きたいという奥様のご期待に応じてご自宅で飲食療法を実践してきました。しばらく自宅静養を優先するために、数多い媒体やテレビ局からのインタビューや出演依頼は、大変申し訳なく断ってきました。

 そんな安崎会長ですが、ようやく1月下旬に入った頃、ご支援の日中交流雑誌創刊者の孫秀蓮さんからのインタビュー依頼に応じることに決めました。2月3日午後3時から、安崎会長がご自宅の階と違う階にある一室で2時間ぐらい孫さんからのインタビューを受けました。

 その前には待ち合わせるところで、ただ2ヶ月未満で車椅子なしでゆっくりですが普通に歩いている先生の姿を見て、インタービュアーの孫さん達はほっとする前にびっくりしました。放射線治療を拒否したのがなんて勇敢かつ英明なご決断でしょう!

 末期がん患者の復活の証人として、偉い精神力の証人として、彼を支える奥様の愛の証人として、20世紀日本の経済発展に大きく貢献された功臣が引退後、違う戦場で閻魔と戦いながら伝説的な人物になっていく過程のレポーターとしてこのレポートを書き、頂いた大きな力をシェアさせて頂きます。

2018年1月28日日曜日

私の信条―苦進楽慎


 引き続き、昨年9月に中国で出版された安崎会長の著作「夢を蒔く」(中国語版は、中国側出版社の主張により「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名となっています)の内容をピックアップして掲載いたします。

 今日は「苦進楽愼」という部分になります。これは、去年12月11日開催された感謝の会の入場券として参加者へ配布された『感謝』と題された手紙に載せてあります---「私の好きなことば」として、・・・『苦進楽慎 苦しい時はとにかく前進あるのみ。調子の良い時は浮かれずに用心しろ』・・・

苦進楽愼---苦しい時はとにかく前進あるのみ。調子の良い時は浮かれずに用心しろ



 両親の事を書いておこう。父親は、四国徳島の出身。幼少期に両親を病気で亡くし、父の姉と兄弟は大変苦労したという。それでも父は旧制中学校3年から、学費がいらない特待生となり、4年になるときに、これまた学費のいらない陸軍士官学校に入り、帝国軍人として勤務した。日中戦争に従軍し、終戦時に捕虜収容所に入れられ、終戦後しばらくして復員した。
 このころの日本では、一定以上の階級だった職業軍人は、連合軍の公職追放令に引っかかり定職に就くことができなかった。だから、私の少年時代の我が家は、貧乏そのものだったが、父親の口癖は、「金は天下の回りもの」。実にあっけらかんとしたものだった。
 母親は、四国阿波の徳島藩主の系統で、祖父、蜂須賀喜信の次女として生まれた。縁あって父と結婚した。昔であればお姫様に近い境遇だったであろうが、父の出征後に4人の子供を抱え、空襲を避け、疎開などの苦労の連続。父の復員後も、貧乏暮らしだったが、それを苦にする様子は見せなかった。子供の私から見ても、蜂須賀の家名を全くひけらかせず、父親第一の良妻賢母であった。私の幼少期には、父親の記憶はあまりないが、母親は、父親不在の戦時中でも、子育てが大変だったろうが、口には出さず、愛情深く、とても優しい母親だった。叱られた記憶は一切ない。
 父親は、公職追放令が解除された後、警察予備隊、保安隊、自衛隊と勤務。陸将になり、東北方面総監を最後に除隊した。現役のころ、陽明学者で思想家の、安岡正篤の会合に出かけ、彼の指導を受けていたようだった。私は社会人となってから、父の話で記憶していた安岡の名前を思い出し、彼の著書を何冊か読んだ。彼の論のすべてに感心したわけではないが、『百朝集』という本に「六然」という文を見つけた。
 中国の明時代末期の崔後渠という、王陽明と同時代を生きた学者で気節の人の言である
「自處超然 處人藹然 有事斬然 無事澄然 得意澹然 失意泰然」……自分に関しては、世俗にとらわれないようにすべし、人に対するときは、相手を喜ばせ気持ちよくさせるべし、何かをやるときは、すぐにやるべし、何もないときは、澄んだ気持ちを保つべし、得意なときでも、静かで安らかな気持ちを保つべし、失意の時でも、泰然自若と構えるべし。
という六つの「然」を並べ、「これができたら真の自由人である」と述べているのが気に入った。
 コマツの役員になったころ、この「六然」を思い出したが、なかなかこのようには過ごせない。それでも、あるべき理想の処世として、時に口ずさんでいたものだ。コマツのグローバル化を陣頭指揮するとき、これに似た「苦進楽愼」という言葉をどこかで見つけた。「困難には、とにかく前に進め、調子のよいときには、浮かれずに用心して慎重を期せ」という程度に理解した。普通はこの逆の行動をしやすいものだ。
 ピンチに動ぜず、バブルに浮かれずということを諭す「苦進楽愼」は、「自處超然 處人藹然」同様に、会社経営の節目、節目に私を鍛えてくれた言葉だ。


2018年1月13日土曜日

「人間は自分が一番大切?」-社員や客先に対しての配慮の必要性


引き続き、昨年9月に中国で出版された安崎会長の著作「夢を蒔く」(中国語版は、中国側出版社の主張により「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名となっています)の内容をピックアップして掲載いたします。

今日は「人間は自分が一番大切」という部分になります。安崎会長によると、社員や客先に対しての配慮の必要性として、社長を退任するときに考えたということです。

人間は自分が一番大切?



この表題には反発を感じる人が多いだろう。「自分勝手はいけない」「世のため、人のために生きるのが人間」というのが世間の常識だろう。
人の一生を考えてみよう。誕生、祝福されて生まれた人が大多数。それでも子供は親を選べない。人生は、親から受け継いだ遺伝子を元に、自分の努力を加えて切り開くものだ。
教育もそうだ。学校が自分を選ぶのではなく、親か自分が学校を選ぶ。仕事も同じだ。人間の寿命は長くて100歳、棺桶に入る時、我が人生は面白かった、と思える人は幸せだ。どのくらいの人が、そう思えるだろう?
自分が一番大切と考える人生は成功とつながるか? 答えは多分NOだろう。それでも私がこの表題を最初に持ってきたのには理由がある。
社長に選任された時、退任した時、共に「人間は自分が一番大切なのではないだろうか」という感想を持ったからだ。
株主総会を経て、取締役会で正式に社長に選任された時、世界中の顧客、従業員、取引先の数を思った。この人たちに対する責任は重いなと。特に従業員、普通名詞の従業員ではなく、それぞれの顔を持った1人ひとりの社員、その家族の幸福のための責任の重さをズシリと感じたのだ。彼らは会社のために働くのか?
取締役会で私の退任と新任社長の選任を決めた時、就任時から6年経っていたが、頭の中に、またこの感想が蘇ってきた。
私は世界中で働いている社員たちが、会社の事業発展のために働いてくれていると、錯覚していなかったか? 彼らは、「100%自分のために働いている」と考えて経営した方が正解ではなかったか?
正直のところこの問題に対する自分の答えは引退後の現在も分からない。失敗も成功もある社長の仕事を振り返ると、失敗の原因は、大多数の世の人々が「自分を一番大事だと考えている」ことを忘れた意思決定、人事等にあるように思うからだ。
「事業は人なり」の言葉通り、人をよく理解することが人の活用につながる。



2017年12月23日土曜日

中国関連の仕事に就こうと決意(続き)~小松入社

9月に中国で出版された安崎会長の著作「夢を蒔く」(中国語版は、中国側出版社の主張により「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名となっています)の内容をピックアップして掲載しています。
今日は前回「中国関連の仕事に就こうと決意」部分のの続きになります。

中国関連の仕事に就こうと決意(続き)~小松入社

1961年のコマツ入社は偶然の産物だった。大手町ビルにあった商社の先輩を訪ねた帰り、ビルの廊下を歩いていたら、大学の同級生に呼び止められた。「昼飯は食ったか?」「まだだよ」「それなら俺についてこい。ただ飯が食えるぞ」と言う。彼について行ったら、当時同じ大手町ビルに本社があったコマツに連れて行かれた。コマツで昼飯をごちそうになり、帰ろうとしたら、人事部の人に「これから面接するから、君も受けていかないか」と誘われた。「一宿一飯の恩義」と言うが、昼飯をごちそうになった義理もあるので、面接を受けることにした。「機械メーカーだから、中国にも関係あるな」と軽い気持ちで面接を受けた。
 集団面接では、日本経済の将来像について、試験官と議論になった。自分の勝手な反論意見を話したが、あまり感心されていないなと感じた。ところが、帰宅したら入社試験合格の電報が届いた。コマツのことはよく知らなかった。父は、「機械なら三菱はどうだ」と言った。コマツに入ることは、あまり賛成ではなかったようだったが、結局は「自分で決めろ」ということになった。私は、これも何かの縁だと感じ、その日のうちにコマツ入社を決心した。結果として、中国に惹かれて就職先を決めたのだ。
 学生時代、先生たちの思い出はたくさんある。ビンタを食らった先生にも恩義を感じたが、中学の校長先生は「お前はものになる」と励ましてくれた。英語の先生は「田舎の秀才で満足したらだめだ」と釘をさした。数学の先生は「カンニングはする方も悪いが、させる方がもっと悪い」と言った。教頭先生は何十年も経った後、地元の徳島新聞に私がコマツの社長に選任されたと報ずる記事を見て、連絡してこられた。先生は、一流の画家として活躍していた。「新聞に、お前がシベリアによく行くと書いてあった。自分はソ連に抑留されて辛い目にあったが、バイカル湖の近くにいた。思い出にバイカル湖をもう一度見てきた。そのときに描いた絵をあげるから受け取ってくれ」と話された。先生はもう亡くなられたが、このバイカル湖の絵は、毎朝ベッドの上から私を見つめている。
 小学校の先生は「腹が減っているだろうから、家に来い」と誘ってくれてカレーライスをご馳走になった。
 これらの先生方の励ましなくして、私の人生はなかった。東京の徳島県人会長になって、後輩の公立校の先生方を表彰するファンドを作り応援した。恩返しのつもりだった。
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 本博正在摘选分享9月在中国出版的安崎会长的著作《夢を蒔く》(中文版由于中国出版方的主张书名由《播种梦想》改为:《机械巨人小松 无所畏惧的信念》)里的内容。
 今天继上次,分享“决意从事与中国相关的工作”章节的后续部分。

决意从事与中国相关的工作

1961年进入小松是源自一个偶然的机会。有一天,我去大手町大楼拜访在那里一家商社工作的前辈之后出来、在大楼走廊上时,一位同学叫住了我。“吃过午饭没有?”“还没吃”“那跟我走吧。有个地方可以免费吃饭”。于是我就跟着他,他带着我去了当时本社也在大手町大楼里的小松公司。在小松吃过午饭,正想离开,人事部担当邀请我“现在开始面接,你也参加吧”。想起“一宿一饭”这句话、感觉应该报答这一顿午饭之恩,于是决定了去参加面接。“既是机械厂家,应该和中国有关系吧”,如此想着,很随意地参加了面接。
 在集体面接中,就日本经济的未来,我与面试官进行了讨论。我直率而随性地阐述了自己的反驳意见,不过觉得自己似乎并没能打动对方。但是意外的是,回家后就收到了电报,通知我的入社考试已经合格。当时对于小松,我并不了解。父亲也说:“要进机械公司的话,三菱如何?”。他似乎不怎么赞成我进入小松,不过最终还是让我自己决定。我感觉到了一种奇妙的缘分,当天就做出了进入小松的决定。就结果而言,是对中国的浓厚兴趣让我做出了这个决定。
 回顾学生时代,有关老师们的记忆极为丰富多彩。想起那位扇了我耳光的老师,现在亦是感恩戴德。中学的校长先生曾鼓励我“你一定会成为有用之才”。英语老师则警示我:“不要仅为成了个乡村秀才就沾沾自喜、骄傲自满”。数学老师说“考试作弊者是坏学生,纵容作弊者更坏”。过了几十年后,教导主任在德岛新闻上看到我被选任为小松总经理的报道后,与我取得了联系。这位老师作为一流画家,甚为活跃。他对我说:“看报纸上写你经常去西伯利亚。我曾被苏联拘留而吃尽了苦头,那时被扣在贝加尔湖附近。后来我重游旧地去过一次。我把那时做的一幅画送给你,收下吧”。这位老师已经故去,然而每天早上我一睁眼就能看到这副贝加尔湖画作,冥冥之中感觉到犹如他在床的上方凝视着我。
小学老师时而邀请我:“肚子饿了吧,来我家”,招待我吃咖喱饭。
 没有这些老师的激励,我的人生定不会如此丰满。饮水思源,在担任东京的徳岛县人会长时,我设立了基金以表彰后辈们就读的公立学校的老师们,用这种方式表达对老师们的感恩之情。

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2017年12月16日土曜日

安崎暁会長「感謝の会」開催~奥様のご期待に応えて食事療法で闘病!

未期ガンと診断されて延命治療よりも"Quality of Life"を優先した当研究会安崎暁会長は、12月11日(月)にANAインターコンチネンタルホテル東京B1で生前葬に当たる「感謝の会」を開催しました。 人生で巡り合ったおよそ1000人の来場者に握手したりありがとうと言ってました。

会の終盤頃、会長の故郷徳島県の素晴らしい阿波踊りも披露されて、来場者達を感動で包む心温まるイベントになりました。

人生の幕をこんな素敵な閉じ方で閉じようとする安崎会長は、来場者達だけじゃなくて、まだ元気に生きている世界中の人々に大きな力を与えてくれました。

ご家族は延命治療をしないことに同意しているのですが、奥様からの「まだ頑張れば生きられるんじゃないの」「まだ一緒に行きたい」というご期待に応じて、退院後ご自宅で食事療法を行っているそうです。

世界中の人々を励ました安崎先生、是非奥様のご期待に応えて頑張って、後10年生きてまた素晴らしいイベントでお祝いしましょう!

当サイト及びFacebookで延命治療以外の療法をご連絡いただいた方々、記事を投稿いただいた方々、その他問い合わせを寄せて頂いた方々、漏れなくメールで闘病中の安崎会長へご報告しております。現状、ご連絡頂いたすべての方々へのご返事が難しいのですが、ありがとうとお伝えさせていただきます。

記念として、ネット上山ほどの媒体や個人の記事からピックアップしたもののURLを貼り付けておきます。 (19ヶ国の言葉の記事)
日本経済新聞 末期がん、元気なうちに「感謝の会」 元コマツ社長の安崎さん
産経新聞 末期がんの安崎元コマツ社長が生前葬「ありがとうと言えたこと、満足」
読売新聞 末期がんのコマツ元社長、感謝伝える「生前葬」
NHK NEWS WEB 末期がん元社長 最期の選択
ホウドウキョク 「残された時間を大切に家族と過ごす」コマツ・安崎暁元社長が“生前葬”
MAG2NEWS 【感動】元コマツ社長が日経に出した個人広告に心打たれる…
FEELY コマツ元社長が、個人で出した『新聞広告』 内容に「大きな器」「美しい」
語学道 いろんな意味合いで、こちらこそ安崎暁先生に感謝を申し上げたい
英語 Satoru Anzaki, former Komatsu president battling cancer, holds farewell party in Tokyo
英語 Satoru Anzaki: Dying Japanese man throws 'end of life' party
英語 Dying Japanese businessman throws 'end of life' party at Tokyo hotel
中国語 日本老板患癌放弃治疗还为自己举办生前葬礼 为追逐生活品质
中国語 向大家說聲謝謝與再見 日本企業家辦「餞別」派對
ノルウェイ語 Døende japansk forretningsmann holdt «avslutning på livet»-fest på hotell
オランダ語 Terminale zakenman organiseert 'eindelevensparty' voor 1.000gasten
ポルトガル語 Organiza festa para se despedir da vida - Insólitos - Correio da Manhã
ベトナム語 Doanh nhân Nhật bị ung thư giai đoạn cuối mở tiệc thết đãi 1.000 người
インドネシア語 Divonis Kanker, Konglomerat Jepang Adakan Pesta Perpisahan
ハンガリー語 Ezer ismerősét hívta meg szülinapi partijára a 80 éves japán üzletember, aki halálos beteg.
トルコ語 Kanser hastası iş adamından 'hayata veda' partisi
アルバニア語 Biznesmeni "feston" vdekjen e tij, mbi 1 mijë të ftuar
スワヒリ語 Satoru Anzaki: Mfanyabiashara aandaa sherehe ya kuaga kabla ya kufa Japan
リトアニア語 Mirtinos diagnozės sulaukęs vyras nusprendė surengti vakarėlį savo ...
クロアチア語 Japanac pozvao 1.000 ljudi na proslavu “kraja života”
エストニア語 Video: surev jaapanlane pidas elulõpupeo, millele kutsus 1000 külalist
ボスニア語 Japanac pozvao 1.000 ljudi na proslavu “kraja života”
アゼルバイジャン語 İş adamı ölümündən əvvəl "Həyata vida" partisi verdi
ソマリ語 Nin lo sheegay in uu dhimanayo oo “xaflad” soo dhoweyn dhimashadiisa ku dhigtay hotel
シンハラ語 දිවියෙන් සමුගැනීම සමරන්න සාදයක්.

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-----以下中国語-----


安崎晓会长 召开「感谢会」~回应夫人的期待-饮食疗法,加油!


被诊断为未期癌症、拒绝延命治疗而优先选择生活质量的本研究会安崎晓会长,于 12月11日(周一)在ANAインターコンチネンタルホテル东京B1召开了相当于生前葬礼的「感谢会」,与人生之中有所交集的大约1000名到会者握手言谢。

来自于会长故乡德岛县的精彩的阿波舞表演,让到会者们深受感动,使这场会成为了一场温暖而激励人心的盛大活动。

安崎会长用如此精彩的方式拉下自己的人生大幕,不仅激励了来场者,也激励了世界上许许多多还健康地活着的人们。

虽说安崎会长的家人们同意了他不接受延命治疗的决定,不过因为感于夫人「加加油不是可以活下去吗」「还想和你一起活着」之語,所以退院之后在家服从夫人安排,接受饮食疗法。
敬请激励了世上许许多多活着的人的安崎会长,回应夫人的期待,加油再活10年,再开一场精彩的庆祝会!

本博客网以及Facebook收到各位朋友关于延命治疗以外的疗法信息、投稿信息以及其他咨询事项,都已通过电子邮件无一遗漏地向斗病中的安崎会长汇报。虽然会长难以一一回复,但是让本博向各位朋友致谢,衷心地感谢大家的关心。

作为本次感谢会的纪念,本博从网上数不胜数的媒体以及个人投稿里选择了19个国家语言的投稿,将其链接贴上。