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2014年7月1日火曜日

日中民間交流誌「和華」が「時代・国境を越える三国志」交流会開催

6月28日13時半~17時、日中民間交流雑誌「和華」は「時代・国境を越える三国志」をテーマとする交流会を開催し、本研究会安崎暁会長が基調講演講師及びパネリストとして出席しました。

当日80名近くの参加者で会場が大いに盛り上がりました。


 講師及びパネリスト陣営:

安崎 暁(小松製作所元CEO 藍綬褒章・旭日重光章受章者)

加藤 徹(明治大学教授、中国研究家)

上永 哲矢(歴史コラムニスト)

パネリスト兼パネルリスト司会:満田剛(中国・三国時代の史学史研究者)


交流会司会陳さん(和華副編集長兼デザイナー)と孫秀蓮編集長の短い挨拶後、12種類ものバージョンの三国志を読んだという安崎会長は基調講演を行いました。歴史のロマン、古代中国の英雄豪傑・主役脇役からの人間模様、魏蜀呉それぞれ世代交代の様子から見る三国志人気の秘密、中国の訪問先での三国志談義、現代に生きる三国志等々を20分ぐらい語りました。



その後のパネルディスカッションで安崎会長は若いとき劉備玄徳が好きだったが、経営者になってから役に立ちそうな敵でも友にして果敢に重用した曹操がより好きになったこと、王道か覇道かなどについて語りました。


京劇を歌えるほど中国語達者の加藤先生は日本語と中国語混じりの三国語りは大変人気でした。


和服姿の上永先生は、三国志が何故日本でこんなに人気なのか等など、武士道の観点から語りました。


満田先生は、大目的の為には目先のことに触れないという知恵の発言も大きな拍手を誘いました。


質疑応答時間に、中国人参加者から質問が続出して、日本人のパネリストが回答する面白くて楽しい場面になりました。

本文の筆者は、質問できるレベルではないが、今回の三国志テーマ交流会準備に向けて日本と中国製作の三国ドラマを見たりしました。大変不思議なことに、三国志に出てくる人物がみんな好きで、例え悪役でも嫌いになったり恨んだりすることないのです。良く考えてみると、古今、三国志を書いた方々も人間だから好き嫌いがない訳がないが、いろんな人物を書く際、なるべく第三者として公正性を保つように努力したのではないか。個人的な偏見や思いこみを抑えて、書かれる人物の立場に立ってまたはその人物の魂へインタービューしながら書いたのかもしれません。彼らは三国志の創作を通じて、世の中へ恨みではなく、仁儀道徳の種をどんどん撒いたのです。これは、日本人と中国人が一緒に三国志を楽しく深く交流できる理由のひとつじゃないかと思われます。

また、私は日本製作のアニメ三国志主題歌の「風姿花伝」(作曲&作詞&歌手:谷村新司)のリズムや歌詞そしてその歌声に酔われ魅了されました。山や河を呑み込むほどの気概がない歌ですが、なぜこんなに魅了されるのでしょうか、悲しみに溢れる歌詞に何故元気をつけられるのは実に不思議なところです。“国は破れて城も破れて草は枯れても風は泣き渡る...”、三国の豪傑達の魂や仁儀道徳が泣き渡る風に入り込んで、この“風”は現代にも生きて、そして未来へ、国境なく泣き渡るでしょう。

-----以下中文阅读-----

6月28日 日中民间交流杂志「和华」举办三国豪杰大会~近80名中日友人到会

6月28日13点半~17点,日中民间交流杂志「和华」举办以「超越时代・过境的三国志」为主题的交流会,本研究会安崎晓会長作为基调演讲讲师以及论坛成员出席了交流会。 当日近

80名参加者到会,会场气氛暖流涌动。

讲师以及论坛成员阵营:

安崎 晓(小松制作所元CEO 藍綬褒章・旭日重光章受章者)

加藤 徹(明治大学教授、中国研究家)

上永 哲矢(历史专栏作家)

论坛成员兼论坛主持:満田 剛(中国・三国時代的史学研究者)


在交流会陈主持(和华副总编辑长兼设计)以及孙秀莲编辑长简短的发言后,由读过12个版本三国志的安崎会長发表了20分钟左右的基调讲演。他从历史性的浪漫,古代的英雄豪杰・主角配角了解到的人间模样、魏蜀吴三国更新换代状况讲述了三国志长盛不衰的秘密,还谈及访问中国时与中国人谈论三国志的经历,至今活力不减的三国志等等。

在之后的讨论会上安崎会长说他年轻时喜欢刘备玄德,成为经营者后更加喜欢能把对自己有用的人才化敌为友笼络过来并赋予重任的曹操。另外还谈及了王道和霸道。

能唱京剧的中文流畅的加藤先生参杂中文的三国发言大受听众欢迎。

着和服的上永先生也谈及三国志为何在日本如此人气,并从武士道的角度侃侃谈及自己对三国志的独到见解。

満田先生说,为顾全大局应具备不触及眼前纷争小事的智慧,赢得热烈的掌声。

在问答时间里,中国人参加者连连发问,日本人论坛成员忙于回答,迎来愉快而妙趣横生的场面。

本文笔者自觉关于三国志没到提问水平,不过在此次三国志主题交流会准备工作中忙中偷闲看了一些日本和中国摄制的三国演视剧。非常不可思议的是,三国志的人物都让人喜欢,即使是恶人形象也讨厌或者仇恨不起来。细细想来,古今三国志的著者也是人,不可能没有喜好,不过他们在塑造各个人物时,估计为保持第三者的公正心而尽了最大的努力。或许他们是抑制着自己的偏见和先入关观,站在被描述的人物立场上,或者一边与那个人物的灵魂对话一边写作的吧。他们通过延续性地创作三国志,向世人撒播的不是仇恨,而是仁义道德的种子。我想,这何尝不是日本人和中国人能欢聚一堂,共议三国志并加深交流的理由之一呢?

另外,我特别陶醉于日本摄制的动画三国志主题歌「风姿花传」(作曲&作词&歌手:谷村新司),陶醉于其韵律,歌词以及歌声。为何陶醉于这首并非气吞山河的歌,为何听着悲哀横溢的歌词,我没有沉沦反而被充满了元气。“国已破,城也破,草枯了,风儿哭着吹过...”(“国は破れて城も破れて草は枯れても風は泣き渡る...”),这么悲哀的歌词为何听着不会冷血却会热血呢,我想也许是因为三国豪杰们的魂魄以及仁义道德都汇聚到这哭泣的风儿中,让这“风儿”一直吹到今天,并将一直跨越国境,吹向未来,。

2013年8月22日木曜日

安崎暁の非公式経歴 ‐ 安崎晓的一些没有记入正式简历里的经历

安崎暁グローバル企業発展研究会会長の安崎 暁です。
先日一回目のブログをご注目、ご応援いただきありがとうございました。

今日は、先日予告しました通り、私の非公式経歴を少しお喋りしたいと思います。

私は1937年生まれ、2013年現在76歳の元小松製作所社長、CEO。

好きな言葉は、”新陳代謝”、”忘己利他”、”苦進楽慎”。もうすぐ棺桶入りの年齢になったが、自分という人間の一生は、成功も失敗も紙一重の瞬間、どちらに転ぶかわからない微妙な転機の連続であったと感じます。これから何回かに分けてこれら瞬間の思い出をお話ししましょう。

1.10歳のころ


第2次世界大戦終了の直後、父親不在の一家5人が、食うや食わずの困窮の生活。それでも母親の楽観主義と親戚・学校の先生の支援で貧乏を苦にせず元気に暮らしていた。

女の先生に将来どんな仕事をやりたいかと聞かれた。さしたる考えもなく、政治家、外交官、と答えた。先生曰く、貴方は指導力が足りないから政治家は無理とのコメント。

これに反発したのか、ある日この先生の授業の時、クラスの男子同級生をそそのかして、授業中に教室から抜け出し近くの遊園地に集団で遊びに出掛けた。大騒動になった子ども版のストライキ。先生に指導力なしと烙印を押されたのに反抗した単なるいたずらだった。

50年以上たった同窓会でこの事件を覚えていた同級生曰く、おまえはうまく逃げ帰ったが、俺は男の先生につかまり大いに絞られたと。

2.中国とのかかわり


15歳位の時大衆小説家 吉川 英治の三国志、宮本武蔵、太閤記を読んだ。子供にも読みやすい本だった。中国にも多くの三国志があるが、日本でも古来各種の三国志がある。私がその後読んだ三国志は、羅漢中演義の翻訳版、陳舜臣・北方謙三・宮城谷昌光・伴野朗・安野光雅(絵本)のほか解説も数多い。それぞれ人物像が著者により異なる。最初に読んだ吉川本の影響で初めは諸葛孔明の知謀に感嘆したが、後に曹操、超雲にも興味をひかれるようになった。

高校生のころ李白、杜甫、白居易などの詩に触れて、漢文の授業が楽しみだった。
一橋大学では歴史、哲学、経済学を学び弓道部に属したが、英語の次の第2外国語は自然に中国語を選択した。

共産党中国政権が1949年に成立して間もなく当時の一般学生は中国への関心の度は薄かった。1学年750人の小さな大学だが、大半の学生はドイツ語、フランス語、スペイン語を第2外国語として選び、ロシア語を選択した学生は10人、中国語は6人と少なかった。東亜同文書院出身の熊野正平教授と中国人の2人の先生に教わりながら紅楼夢を読んだり人民公社・文化大革命などの最新報道の中身が理解できず首をかしげていたりであった。

学者を志すか、会社勤めをするか迷いながら学士入学をして社会学部と経済学部を卒業した。
結局学者を志す根性が足りず、実業の世界を選び、建設機械の小松製作所に入社した。
中国と関わりのある業種会社を選んだことに迷いはなかった。

当時私の選択の範囲は、鉄鋼、農機、建機、化学、海運、銀行、商社など。コマツにしたのは偶然の選択。先輩の国際貿易促進協会長 村田省蔵さんは1950年後半の当時”いずれ日本と中国との関係は飛躍的に発展する、学生は今から中国に関心を持て”と良く話しておられた。

会社に入ったばかりのころは、社長になるとは思っていなかったが、北京事務所長に早くなりたいと念願していた。(続く)

最後までお読みいただきありがとうございました。

-----以下中国語-----

我是安崎晓跨国企业发展研究会会长安崎 晓。
谢谢大家对我几天前第一篇博文的关注和声援。

按照第一篇博文预告,今天我将谈谈我的一些没有记入正式简历里的经历。

我于1937年出生,到2013年至今76岁,曾任小松制作所的总经理、CEO。

我喜欢的话有”新陳代謝”、”忘己利他”、”苦進楽慎”。现到了行将就木的年龄,回顾自己走过的人生之路,感觉成功与失败往往与我如影相随,甚至有过许许多多这二者仅仅差之毫厘,稍有不慎就会在哪儿摔个跟斗的瞬间,我感觉自己的人生就由这样的瞬间串联而成。接下来我就分几次说说这些瞬间的回忆。

1.10岁左右的时候


在第2次世界大战刚刚结束后,父亲不在家,一家5口人过着吃了上顿没有下顿的贫困生活。尽管如此,多亏乐观主义性格的母亲以及亲戚・学校老师的援助,我们没有以贫穷为苦,却过着乐道安贫的日子。
有位女老师曾经问过我将来想做什么工作。我不加思考就回答想做政治家,外交官。老师却说,你指导能力不足,当不了政治家。
似乎是反抗老师的说法,有一天遇这位老师的授课时,我鼓捣班里的男同学们,在她授课中离开教室到附近的游园地结队玩耍。那真是一场小孩子闹翻天的罢课运动。是针对老师给我打上没有指导能力烙印的反抗性的恶作剧。
在50年后的一次同窗会上,有个还记得这件事的同学说,你倒跑得快,我却被一个男老师抓住,被好一顿教训。

2.与中国的关系


在15岁左右的时候我读了大众小说家吉川 英治的三国志、宫本武藏以及太阁记。这些书对于孩子们来说也易于阅读。中国有许多版本的三国志,在日本从古自今也有各种版本的三国志。我那之后读的三国志,是罗贯中演义的翻译版,陳舜臣・北方謙三・宮城谷昌光・伴野朗・安野光雅(画册)等版本,解说也很多。各个版本所描写的人物形象也因作者不同而有所不同。受最初阅读的吉川版本的影响,我对诸葛孔明的足智多谋赞叹不已,但后来又对曹操,赵云产生了兴趣。
在高中时代,我接触了李白、杜甫、白居易等人的诗,上汉文课成了我的乐趣。
在一桥大学,我学习历史、哲学、经济学,还加入了剑术部,在选修外语课程时,继英语之外我自然而然就选择了中文为我的第二外语。当时共产党的中国政权于1949年成立后不久,一般学生对中国的关心度还很薄。那时大学的规模尚小,1个年级仅750人,大部分学生都选择德语,法语,西班牙语为自己的第二外语,选择俄语的学生10人,选择中文的只有6人。我一边求教于出身于东亚同文书院的熊野正平教授和2位中国人老师,一边阅读红楼梦,对人民公社・文化大革命等最新报道的内容却是难于理解,觉得不可思议。
对于自己是立志成为学者,还是进入公司就职呢,我在迷惘中进修了学士课程,从社会学部以及经济学部毕了业。
结果,由于成为学者的斗志不足而选择了实业的世界,进入了建设机械业的小松制作所。不过,在选择和中国有关行业的公司这点上我却没有过迷茫。
当时我选择的范围包括钢铁,农业,建设机械,化学,海运,银行,商社等等,小松是一个偶然的选择。我的前辈,国际贸易促进协会会长村田省藏先生在1950年后期曾说“日本和中国的关系迟早会有飞跃性的发展,学生们从今需要关注中国”。
我刚刚进入公司的时候,并没有想到成为总经理,而是一门心思想早日成为北京事务所的所长。(续)

谢谢您一直读完本文。

2017年7月9日日曜日

祖父の漢詩が、中国へ誘った~「夢を蒔く」からの抜粋

  前回のブログに、若頃の安崎先生が中国官僚との「雨降って地固まる」体験談を載せました。

  商談が喧嘩まで発展し双方の絆が壊される可能性が高いので決して良いことではない。しかし、当時、きっと中国の近代化に貢献したいと、コマツ製品の中国での国産化を提案した安崎先生の善意と燃えるような熱意が充分に伝わったので、コマツと中国側との絆を壊すことなく、逆に深めた良い喧嘩でした。

  ところで、その善意と熱意はどこから生まれ、燃えそうになったのか?この新書で探ってみたら、「子供時代から抱いていた中国への興味」という章節に辿り着いた。著者の同意を頂いて少しピックアップして掲載しましょう。

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祖父の漢詩が、中国へ誘った


by 土屋康太郎-11 years old-Mr. Anzaki's grandson

  私の中国への関心の扉を開いてくれたのは、母方の祖父だった。この祖父は、四国徳島の藩主だった蜂須賀家の末裔で、名を蜂須賀喜信といい、明治、大正時代の陸軍軍人であった。軍人であったが、剛直というより、むしろ文人の風格があり、書、画をよくした。彼の娘である我が母も、年を取ってからよく絵を描いていた。本書の挿絵を描いた土屋康太郎は私の11歳の孫で、現在小学校6年生。本人は、ごく普通の子供だが、絵の才能はあり、日本でも、また一時居住していたアメリカの小学校でも、この才能は評価されていた。私には、祖父の才能は遺伝していないので、孫の一人が、祖父の血筋を受け継いだようだ。

  この祖父が、私が中学生のころ、よく漢詩や論語の一節を読み聞かせてくれていた。内容をはっきり理解したわけではなかったが、杜甫、李白、白楽天などの詩は耳に心地よく響いていたことを記憶している。子供心にも訴えかける「何か」があったのだと思う。

  その次は、三国志である。吉川英治が易しく書いた『三国志』ではなく、難易度の高い『三国志演義』の翻訳書を読んだ。中学生にはとても難しかったが、知り合いの本屋で立ち読みを繰り返した。次第に内容に惹かれ、毎日の本屋通いを続けた。ついには、本屋の主人が、「この椅子に座りなさい」と言ってくれるほど、この物語に興味を持った。  この後、やはり翻訳書ではあるが、社会人になった後も、多くの作家の『三国志』を読み漁った。諸葛孔明のすごさにも惹かれたが、曹操が一番好きな登場人物だった...

-----------以下中国語-----------


  上篇博文里,分享了年轻时安崎先生与中国官僚之间“不打不相交”的体验之谈。

  谈判发展到吵架绝对不是件好事,因极有可能让双方关系破裂。然而,当时一定是安崎先生让中方充分感受到他期望对中国近代化建设做出贡献而提出小松产品在中国国产化建议的善意以及近乎燃点的热情,使得小松与中方的关系不仅没被破坏,而是加深了,可说是一场良性的吵架。

  不过,如此善意和热情是如何产生、又是如何高涨近乎沸点的呢?求问这本新书,在“萌芽于孩提时代的中国情结”这一章里我似乎找到了其源头。获得作者同意,摘选一部分内容,分享如下。


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外祖父的汉诗,诱发了我对中国的兴趣


  最初启发我、使我开始对中国产生兴趣的是外祖父。外祖父是四国德岛蜂須贺藩的后裔,名叫蜂須贺喜信,是跨明治、大正时代的陆军军人。他虽身为军人,然而与其说刚强,不如说更具有文人之风格,喜欢书画、舞文弄墨。他的女儿既我的母亲,上了年纪后也经常作画。本书里插图的作者土屋康太郎是我11岁的孙子,现在是小学6年级学生。他是一个普通的孩子,却有绘画天赋,不仅在日本、而且在曾经生活过的美国的小学都获得了好评。看来,外祖父的才能没有遗传给我,却隔代遗传给了我的一个孙子。

  我这位外祖父,在我中学时代,经常让我听他阅读汉诗和论语。我虽然并不太明白内容,然而杜甫、李白、白乐天的诗还是听得津津有味。我想,诗句里或许有一种能拨动儿童心灵的神奇力量吧。

  接着我还读了三国志。读的不是吉川英治改编的三国演义,而是难易度比较高的三国演义的翻译版。对于中学生来说,这书读起来难度极大,不过我经常去熟人的书店站着反复阅读。渐渐地被书的内容吸引,竟然每天必去阅读。兴趣越来越大,对我见惯不惯的书店主人也不由招呼我:“坐这把椅子”。 这以后,在进入社会后,我也不停地收罗出自于许多作家笔下的各种各样三国志翻译版本读了个遍。虽然诸葛亮的非凡让我叹服不已,然而在所有登场人物之中,我最喜欢的却是曹操......

2014年6月14日土曜日

6月~7月の交流会情報

6月~7月の交流会情報を更新いたします。

1.6月21日~22日  山形県米沢

テーマ:「戦わずして勝つ経営体質作り」

共催者&後援者: 米沢工業会、山形逸品店―義風堂、米沢商工会議所、米沢市電信協、米沢電気工業会、株式会社おしょうしな企画など

2日間のプログラマ:講演交流会+蛍を見える温泉宿+現地観光(米沢牛、さくらんぼ狩りなど)

この交流会の開催は、去年10月に山形県株式会社おしょうしな企画大木社長と一緒に安崎会長にお会いに来られた袴田さんが今年3月のご提案によるものです。去年の袴田さんは最初ボランティアとして、その後一時的に短時間バイトとして大木社長のお仕事を手伝ってました。その後、米沢政府から補助金事業の申請に成功して山形逸品店―義風堂を開業し中国を含むアジア諸国へ山形県の自然食品のネット販売事業に一生懸命取り組んでいます。

21日の交流会へは、山形の方々と交流したいという安崎会長の故郷徳島県のNPO関係者数人がわざわざご来場される予定で、当初イメージした小型の交流会は地域を超える賑やかな会になれそうです。

2.6月28日 東京都 現代三国豪傑大会



テーマ:現代に生きる「三国志」語り合いによる文化交流

主催者:日中民間交流誌「和華」

主な内容:中国研究家・明治大学教授の加藤徹先生、コマツ元CEOの安崎暁先生、中国三国史研究家満田剛先生、歴史コラムニスト&三国志紀行家上永哲矢先生などによるパネルディスカッションや参加者全員の活発な自由交流!

本日現在参加申込者は60名を超えました。 詳細やお申込につきましては、和華のFacebookページより⇒ 和華Facebook

3.7月10日  東京都内

テーマ:「日本型ハイブリッド経営の一例  情報技術と経営の融合」

主催者: SIA(システムイニシアティブ研究会)


—–以下中文—–

下面是6月~7月的交流会最新消息。

1.6月21日~22日  山形县米沢

主题:「建立不战而胜的经营体制」

主办以及后援者:米沢工業会、山形逸品店―義風堂、米沢商工会議所、米沢市電信協、米沢電気工業会、株式会社おしょうしな企画等

2天间的主要节目:讲演交流会+可观看萤火虫的温泉旅馆+当地观光(参观米沢牛,摘吃樱桃等等)

 这个交流会是由去年10月和山形县株式会社おしょうしな企画大木社长一起来拜访安崎会长的袴田桑于今年3月份提议并计划而成。去年袴田桑最初作为义工,之后作为短期员工为大木社长工作过。不久她成功地申请到米沢政府的補助金事業,开业山形逸品店―義風堂,投身于将山形的自然食品介绍并销售给包括中国在内的亚洲国家的网店运营事业。

 21日,安崎会长故乡德岛县的几位NPO工作人员将专程赶赴交流会与山形县的朋友交流。当初想象的小型交流会看似将能成为一个跨越地域的热闹的盛会。

2.6月28日 東京都 现代三国豪杰大会

主题: 現代に生きる「三国志」語り合いによる文化交流

主办方:日中民間交流杂志「和华」

主要内容:中国研究家・明治大学加藤徹教授、小松原CEO安崎暁先生、中国三国史研究家満田剛先生、歴史专栏作家&三国志紀行家上永哲矢先生等等登台聚谈以及到会者全员的自由交流!

时至今日,网上网下报名参加者合计已经超过60名。 详细信息以及报名参加请参阅和华的Facebook网页⇒ 和华Facebook

3.7月10日 東京都内

主题:「日本型混合型经营的一例 信息技术和经营的融合」

主办:SIA(システムイニシアティブ研究会)

2017年6月10日土曜日

1杯100万ドルのウォッカ商談~無謀な真似をせずに...

中国語の翻訳者として、安崎会長の中国語の本を「三国」にたとえるなら、すでに中国で出版された「聚变」がかたい経済経営理論的な内容が多くて「三国志」だと言えて、これから中国で出版予定の「播种梦想」(仮称)が面白い部分がかなり増えたので「三国演義」だと言いたい。特に手をたたいて快哉を叫んだ内容がありました⇒「1杯100万ドルのウォッカ商談」。著者の許可をいただいて、シェアしましょう。ただし、ご注意頂きたいのが、コマツが旧蘇連でCATと壮絶な戦いを経て、売り手市場を作り上げたことが背景でしょうから、無謀な真似をせずに・・・

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...ソ連での契約調印後は、おきまりのウォッカ・パーティだ。何度かウォッカを飲んでいる内にわかってきたのは、私は6杯までは正気を保てるが、7杯で意識不明になってしまうということだった。7杯飲んだときは、必ずひっくり返ってしまい、ベッドの上で朝を迎える結末になる。服は着たまま、靴も履いたままという格好だ。
飲めないウォッカを無理して飲むうちに、体調を崩した。このままの生活をしていると、身体を悪くするか、仕事を辞めるかの選択となってしまう。ある日、無理矢理飲ませようとする商談相手に、「もう飲めない。これ以上飲ませるなら、次からの商談では1杯100万ドルの値上げをするぞ」と脅かした。相手も酔っているので、「OK、OK。いいから飲め」としつこく強要した。仕方がないので、無理をして飲み、いつも通りひっくり返ることになった。
 次の商談で価格を合意した後、「ところで、前回のウォッカ代を足してもらおう。あと100万ドル払え」と大人気なく、しかし断固として100万ドルの上乗せ交渉をした。当然、相手は拒否する。しかし、私も引き下がらない。2日粘って、結局100万ドル追加での契約調印に成功した。
 この100万ドルが、私のものになるわけではなく、当然会社の売上高となるのだが、当時の日ソ貿易担当で、こんなことをした日本人はいないだろう。その後、相手も私には「飲め、飲め」の無理強いはしなくなった。まさに100万ドルの威力だ...

1杯让谈判增值100万美元的伏特加~请勿盲目模仿...




作为中文译者,如果用三国来比喻安崎会长的中文书,那么已经在中国出版的《聚变》因其较难啃的经济经营理论方面的内容较多可喻之为《三国志》,而今后预计在中国出版的《播种梦想》(假定书名)里妙趣横生的内容大大增多,因此我想将它喻称为《三国演義》。里面有一段特别让我拍手称快的内容⇒《1杯让谈判增值100万美元的伏特加》。获得著者许可,分享如下。不过需要注意的是,安崎会长当时敢于如此行事是因为小松在苏联经过了与卡特彼勒之间你死我活竞争之后,打造出了卖方市场吧,因此谨防盲目模仿。

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...与苏联方签订契約之后,按照惯例举行了伏特加酒宴会。喝过几次伏特加后,我已经清楚自己的酒量,通常喝到6杯还能保持清醒,而喝到第7杯就会意识不清,喝完第7杯的结果必定是穿着衣服、鞋子就翻倒了,躺在床上直到第二天早上才能清醒过来。
 喝不了伏特加,却勉强喝,以至于喝坏了身体。如此下去,总有一天我将不得不面临喝垮身体还是辞掉工作的两难抉择。有一天,我威胁向我强行劝酒的商谈对手说:“不能再喝了。你如果硬要我继续喝,下一次商谈时提价,1杯算100万美元”。对方也已经醉了,继续不罢休地强行向我劝酒:“OK、OK。喝吧”。没办法,我只好勉强喝下,与通常情况一样,喝翻了。
 下一次商谈中双方就价格达成合意后,我像犯了孩子脾气似地、却毅然决然地向对方交涉加价100万美元:“话说,上次的伏特加费用加上吧。你得付100万美元”。当然,对方拒绝了,但是我却也不依不饶、绝不相让。你来我往斗了2天,结果是我成功地让对方加上100万美元、签订了契约。
 这100万美元当然不是进入了我的腰包、而是计入公司的销售额里。当时的日苏贸易担当里,除了我应该没有第二个人干过这样的事情。那之后,商谈对手再也不对我强行劝酒了,100万美元之巨大威力真是不容小觑...



2016年6月22日水曜日

安崎会長、6月21日アリババ関係者たちとの交流会で講演

今日、安崎会長より久しぶりに便りが届きました。去る6月21日にアリババ関係者たちとの交流会で日中グローバル企業の課題をテーマとした講演後、Q&Aの一部の紹介でした。下記の通り、シェアしておきましょう。
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Q1:安崎先生は三国志の愛読者と聞くが登場人物中誰が好きか?なぜか?
A:曹操です。人材の登用・人事評価・信賞必罰が明確、人使いがうまいところに惹かれる。
Q2.日本には、400年も500年も続く長寿企業があるが企業永続の秘訣はなにか?
A:中国では社会主義市場経済を始めて間もなく国営企業は別として、民間企業では新興企業も良く消滅している。成功を急いで求めすぎ、生き延びることを大事にしていないのではないか?存続のためには、キャシュフロウ(資金繰り)に留意しなければならない。
借金したり上場したりしても、金融機関・市場の信頼を得続ける努力を忘れてはだめだ。
後継者を時間をかけて育て成長を見守る勇気と根気も要る。日本でも優れた創業者が自分を過信し、ときに失敗している。老害は発展の敵だ。「事業の成長に最も害をなすものは、青年の過失に非ずして老人の跋扈である」という伊庭貞剛の言の通りだ。
Q3.10年で500人のビジネスリーダー候補を作るというプロジェクトで最も注意したことは?
A:将の将たる人物を見つけてきて育てることだ。

PS:アリババについてはソフトバンクの孫さんが投資し、発展後、株を売却して儲けたことぐらいしか知らないが、本日22日の新聞によると、その孫さんは、大金を投じて探してきた後継者を社長にせず自分がまだやるとのことだ。
成功した創業者の後継問題は難しい!


-----以下中国語-----


有些日子没有音讯的安崎会长今天来信,提及6月21日在阿里巴巴关系人士参加的交流会上以日中跨国企业所面临课题为主题的演讲,并介绍了演讲后一部分Q&A的内容,现分享如下。
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Q1:听说安崎先生非常喜欢阅读三国志,请问在三国的登场人物中您喜欢哪一位?为什么?
A:我喜欢曹操。他善于人才选拔、人事评价、赏罚分明、他知人善任的作风对我很有吸引力。
Q2.日本有长达400年、甚至500年的长寿企业,请问企业长寿的秘诀是什么?
A:中国开始实行社会主义市场经济后为时尚不久,且不说国营企业,民间企业中也有不少新兴企业在消失。估计是因为急于求成,急功近利,没有重视企业的生存之道吧?
要让企业存活下去,首先必须重视资金流动(资金周转)这项要务。
就算贷到款实现了股票上市,也不可忘记需继续致力于获取来自金融机关以及市场的信赖。
另外在培养接班者方面也应不惜花费时日,需要勇气与不懈的恒心。在日本时而也有优秀的创业者由于过于自信而失败。
老害是发展之敌。正如伊庭贞刚所言:“对于事业的成长,最大的危害不是青年的过失,而是老人的跋扈”。
Q3.请问您在施行10年培育500候补商业干部这个项目中最重视的事情是什么?
A:在实施那个项目时,我最重视的是致力于发现并培养那些具有将将之才的人物。

PS:关于阿里巴巴,我只知道软银的孙社长曾投资、在阿里巴巴发达后、他卖掉股票赚了钱,不过我从今天22日的新闻得知,孙社长又不让他自己花费巨款寻来的接班者继任社长之位,而是决定自己续任之事。
成功创业者的继承人问题真是一件难事啊!

2015年3月18日水曜日

企業家“老兵”は死なず、消え去るのみ。日中交流先駆者“老兵”は消え去りもしない。

本研究会は2013年7月に成立してから、徐々に活動の場をネットから現実社会へも移り、2014年年末に向けていくつかの団体と横連携し日中交流活動を積極的に行ってきました。

どちらの活動も大変活発で有意義でしたが、特筆したいのはまずブログ等の電子記録だけでなく立派な出版物「聚变」という本を作りだした上海側出版社の活動です。この本を出版後いくつかの交流会で煉瓦として投げて、玉をたくさん引き出せました。

もうひとつ特筆したいのは日本側の日中民間交流誌「和華」です。和華は2013年10月に中国人留学生が創刊した季刊で大勢の日中友人に支えられ第4号の発刊時に、ISSNを取得し、多くの日中交流機関、大学、国立国会図書館等に受け入れてもらうようになり、読者層は100%近く草の根でサラリーマンから元首相までかなり広げてきました。
和華は創刊後、第2号と第5号に本研究会安崎会長のインタービューを載せました。第5号のインタービューも好評を受けているので、本研究会のブログサイトに残すことになりました。

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和華:早速ですが、先生はコマツ社長などを引退後、著作活動や日中交流促進などで大活躍さていますね。しかし、現役引退は早すぎたのではありませんか?引退後のご活動をぜひ聞かせてください。
安崎:「現役引退」という言葉になじまない職業があり芸術家はその最たるものだ。一般の公務員、会社員には普通、定年制度があり、組織のトップの引退についても様々な考えがある。死ぬまで現役という人も立派だが、私の場合、現役の間は目一杯頑張る、引退後は過去の栄光は追わない主義だ。この主義が良いと思う理由は下記の通り二つある。
1.住友の第二代総理事 伊庭貞剛(1849~1926)の言“事業の進歩発展に最も害をなすものは、青年の過失ではなく、老人の跋扈である”に同感し早く引退し現役の仕事の邪魔をしないことに決意した。
2.社長就任前の1990年代初期、社内に90年代委員会を設置した。会社の21世紀の発展のために“今何をなすべきか”を当時の若手社員とともに議論した。この時ビジョン・知恵・経験十分と自負していた自分が、若さ・馬力はもう不足していると実感した。事業の運営には、老壮青のバランスが重要だと認識させられた。人を活かすハイブリッド経営の視点の一つだ。
そういう訳で、私の引退後の生活は、自分のエネルギー、時間、コストを世のため・人のため、家族のため、自分自身のために三等分して社会への関心を失わず、家族を愛し、自分にも忠実に楽しく暮らすことを目標としている。
日中関係、故郷徳島、教育などの応援が私流の世のため人のための活動であり、引退後の社会との接点となっている。和華の支援、著書の中国での出版も草の根日中交流を目指す私の気持ちに沿っている。

和華:世のため・人のため、家族のため、自分自身のためという“三等分”式引退生活は、“Win-Win”という2Wを超越した“Win-Win-Win”という3Wのご立派なライフスタイルですね...では、次のご質問ですが、ご著作「日本型ハイブリッド経営」とその中国語編訳版の「聚变」を拝読しましたが、経営者としての安崎先生は引退後著書を始めたきっかけ、或いは目的は何なのでしょうか?
安崎:ちょっと長い話ですが…短く話そう。まず、グローバル大競争時代、エンロン、リーマン事件に垣間見られる欧米流企業経営管理における“金融資本主義”及び“利益第一主義”に何らかの修正が必要であり、そのため東西文明の融合に努めてきた“日本型ハイブリッド経営”管理思想は重要な役割を果たすだろうと思う。この考えは私が西藤輝、渡辺智子両氏と≪日本型ハイブリッド経営≫の共著の誕生に繋がった。本著は日本の大学院生、若いビジネスマンを読者として想定し、企業の社会的責任を主題として、コマツの事例を回想しながら未来の経営者へ助言した。
一方、私は子供頃から中国文化に馴染んだ祖父の影響でずっと中国に憧れ、大学で中国語を第二外国語とした。偶然な機会で大卒後コマツに入社し、日中国交回復頃から中国への技術支援の提案や推進、直接投資や社会貢献など、長年日本と中国を繋げようと尽力してきた。

近年大躍進したが尚問題も抱える中国経済の発展の鍵を握るのは、中国の民間企業だ。我われ日本のグローバル民間企業の試行錯誤の歴史はこれら中国の民間企業にとって、教師・反面教師として大いに参考になるはずだ、私はそう考えて「日本型ハイブリッド経営」の中国語編訳版「聚变」を、これら中国の民間企業の経営者、管理者、その予備軍の学生諸子を対象に刊行した。


和華:この2冊の著書やブログに、孫子兵法、中国語の諺や四字熟語がしばしば引用されていて中国文化の影響をはっきり読みとれました。先生は中国文化の影響を受けて良かったとお考えでしょうか?
安崎:日本の中世、近世の文化人の教養のもとは、四書五経、漢詩、唐詩であった。現在の日本の政治家、経済人、軍人に孫子の愛読者も多い。一般的に、日本人は職人文化に優れ、ものづくりの精緻さは天下一品だが、中国人の商人文化には駆け引きで及ばず、また大戦略の立案、実行がやや苦手と言われる。私は子供の頃から三国志が好きだった。社会人になってからも異なる著者の三国志を読み返した。中国、欧米の経済人は戦略思考に優れた人が多いのも事実だ。彼らに負けぬよう、日本式の細部の戦術のみに拘泥することに満足せず、戦略をおろそかにせぬよう意識して勉強した。ドイツのクラウゼヴィッツや孫子は、軍事のみならず、グローバル経済競争に勝ち残る上のヒントに満ちている。私のいう「ハイブリッド経営」はシュンペーターの新結合というイノベーション思想を実行するものだが、孫子の戦略思想に学んだものでもある。
現代の中国人が時々ニヤリとして、「上に政策あれば、下に対策あり」というが、これも私が感心する中国人の知恵である。また、私の座右銘の一つに出処が定かではないが、「苦進楽慎」という造語がある。調子の悪い時は無理しても前に進め!うまく行っている時には逆に用心してかかれ!苦境にめげず、バブルに浮かれるな!という人生訓には何度も救われた。戦国策に「行百里者半九十」(百里を行く者は九十を半ばとす)というよく似た表現もある。最終段階のツメが大事だ、天下が安定しているようなときに危機の芽が生まれている。こういう時こそ用心しろ!とはゴルフのみならず、企業経営のコツでもある。中国文化のお世話になっていることがわかるでしょう。

和華:先ほど、「現役引退という言葉になじまない職業があり芸術家はその最たるものだ」とおっしゃいましたよね。現役引退された安崎先生が今も日中交流“前線”に立ち続け、黙々と和華の強力な礎となっているご立派なお姿から、「日中交流“前線”にも現役引退という言葉はなじまない」と思うようになりました。企業家“老兵”は死なず、消え去るのみ、日中交流先駆者“老兵”は消え去りもしない。安崎先生、どうぞ引き続き和華と一緒に日中交流前線を引退せずにいてください。

-----以下中文-----

企业家“老兵”不死,只是渐隐去,日中交流先驱者“老兵”不死亦不隐去。


本研究会自2013年7月成立以来,渐渐把活动场所从网上转入现实社会中,到2014年年末为止积极地与其他几个团体横向联合举办了几次日中交流活动。

每场活动都非常活跃并富有意义,特别是不仅留下博文这类电子记录,更制作了优秀出版物「聚变」的上海方出版社的活动。上海出版社用这本书抛砖引玉,成功地把几场交流会办成了盛会。

另外还想特写一笔的是日本方的日中民間交流杂志「和华」。和华是中国留学生在2013年10月创办的季刊,自创刊后得到众多日中友人的支持,到第4号发行时,取得了ISSN,被众多日中交流机构、大学、国立国会图书馆等接受、读者层几乎100%属于草根大众,从一般的工薪族到原首相,颇为广泛。
和华创刊后曾在第2号和第5号两次采访本研究会安崎会長,第5号的访谈录也颇受读者的好评,特收录于此,分享于世。

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和华:让我们立即进入主题,您从小松社长等要职上引退后,现在却活跃在日中交流活动中。您的现役引退是否太早些呢?能介绍一下您现在的一些活动吗?
安崎:“現役引退”这个词不适用于有些职业,艺术家便是最典型的例子。
一般说来,公务员、公司员工都有相应的定年退休制度,围绕组织的高层人员引退也有各种各样的看法。虽说至死不引退的人也了不起,不过就我本人而言,我奉行现役期间竭尽全力,引退后则不追恋过去荣光之主义。我认为这个主义好在以下两点。
1.住友第二代总理事伊庭贞剛(1849~1926)之言“阻碍事业进步发展的最大因素,不是青年的过失,而是老人的跋扈”,我对此深有同感,因此我决意早日从现役引退下来,并坚持不去干扰现役后辈们的工作。
2.我在就任社长前的1990年代初,就在公司内设立了90年代委员会,针对公司在即将到来的21世纪能得以发展,“现今该做什么”而与当时的年轻员工们展开了讨论。当时的我虽为自己不乏理想?智慧?经验而颇感自负,却也有了自己并不年轻,马力不足的实感。这让我认识到,要让事业得以正常运转,老中青的平衡搭配至关重要。一言概之,活用人才,当从混合型经营角度出发寻求各个年龄层力量的最佳平衡点。
再说引退生活,我引退后把自己的能量,时间,金钱划成三等分,分别用于为世界?为他人,为家族,为自己这三方面。也为自己定好了引退生活的目标,那便是不失去对社会的关心,爱护家族,也忠实于自己,快乐地生活。
我对中日关系,故乡德岛,教育等方面的援助便是我为自己定下的“为世界?为他人”范围的活动,这也成了我引退后与社会之间的接点。我对和华的援助,著书在中国的出版都符合我参与促进中日草根交流活动的心愿。

和华:为世界?为他人,为家族,为自己,您这“三等分”式引退生活可说是一种超越了“Win-Win”2W方式,升级为“Win-Win-Win”3W的丰富多彩的生活方式啊 ...接下来的问题是,拜读了您的著作「日本型ハイブリッド経営」以及本著的中文编译版「聚变」之后,想请问您作为经营者引退后开始著书的动机或者目的是什么?
安崎:说来话长…长话短说吧。首先,在全球化大竞争时代发生的安然(Enron Corp)以及雷曼兄弟(Lehman Brothers)事件警醒我们必须对欧美式经营管理中可见端倪的“金融资本主义”以及“利益第一主义”进行必要的修正。我感到“日本式混合型经营”这种融合了东西方文明之精华的企业经营管理思想,将会在这个修正过程中发挥重要的作用。这个想法让我与西藤辉,渡辺智子两位的共著≪日本型ハイブリッド経営≫得以问世。我在本著中假设日本的大学院生,年轻商业人士为读者层,以企业的社会责任为主题,通过回顾小松发展历程中的案例,向未来的企业经营者们展示了我们对于经营跨国企业的一些荐言。
另外,因自小承教于深受中国文化熏陶的祖父,我对中国一直怀有憧憬之情,因此进入大学后便选了中文为第二外语。后来一个偶然的机会让我大学毕业后进入小松,在中日恢复邦交之时便提出并着手推进小松对中国的技术支援业务,其后进而扩展对中国的直接投资以及社会贡献等等事业,在中日经济交流领域中常年奉献了自己的力量。
近年中国经济得以大跃进,却也尚存不少问题,能解决这些问题的估计非中国的民间企业莫属了。我想日本全球化民间企业在先行一步的历程中积累的经验教训对于中国的民间企业而言,作为正反面教材,应该大有其参考价值。这个想法便是「日本型ハイブリッド経営」一书 之中文编译版「聚变」的催生剂。我设想中国民間企业的经营者,管理者及其预备军学子们为本书的读者层,决定将之出版发行了。

和华:在这两本书里以及博文中,孙子兵法,中文成语以及四字惯用熟语常现,显而易见您受中国文化的影响不小。您自己认为受中国文化的影响是否好事?
安崎:中世、近世的日本文化人接受的基础教育是四书五经、汉诗、唐诗。现今日本的政治家、经济人、军人里孙子兵法的爱读者也大有人在。一般说来,日本人长于职人文化,物品制作之精致堪称天下一流,而商人文化方面则不及中国人,另外还不太擅长策划以及实施大战略。我从孩童时代就喜欢三国志,成为社会人后也反复读了不同著者撰写的三国志。中国、欧美确实有很多擅长战略性思考的经济人。不甘心输给他们的我没有拘泥于日本式的具体战术钻研,而是一丝不苟地学习以加强战略性思维能力。德国的卡尔•菲利普•戈特弗里德•冯•克劳塞维茨(Carl Philipp Gottlieb von Clausewitz)和孫子的书赋予我的并非纯军事性知识,更有如何在当今全球化经济竞争中胜出的启示。我所说的「混合型经营」既是对于约瑟夫•熊彼特(Joseph Alois Schumpeter)所谓新结合的创新思想的实践,也受益于孙子兵法的战略思想。
现代中国人时而笑称「上有政策,下有对策」,这也是一种让我感服的中国人的智慧。另外,我有个座右铭,出处不明,是我造的一个词「苦进乐慎」。在不顺之时顶风也要前进!在风调雨顺之时反而要小心从事!不因苦境而沉沦,不因顺利而飘然!许多次我都得救于这个人生训言。战国策也有相似的训言「行百里者半九十」,意为事情到了最终阶段尤其需要坚持到底以求善始善终,倘以为万事大吉而掉以轻心,则极易遭遇前功尽弃的风险。此时正是需要当心之时!这不仅适用于高尔夫,也适用于企业经营。由此可见,于我,接受中国文化获益匪浅。
和华:刚才您说过,「“現役引退”这个词不适用于有些职业,艺术家便是最典型的例子」,您現役引退后一直坚守在日中交流“前线”上,甘为支撑和华的一块默默的强大基石的姿态让我深深认识到,「“現役引退”这个词也不适用于日中交流“前线”!」。企业家“老兵”不死,只是渐隐去,日中交流先驱者“老兵”不死亦不隐去。安崎先生,衷心希望您与和华一起坚守在日中交流前线上,不言退役。

2017年6月25日日曜日

雨降って地固まる~中国との100日交渉

先日、安崎会長の中国で出版予定の新書コンテンツからピックアップして掲載した「1杯100万ドルのウオッカ商談手をたたいて快哉!」は、若頃の安崎会長が一人前のコマツ人としてソ連での「雨降って地固まる」経験談でした。
経験談といえば、本書にほかにも「雨降って地固まる」経験談が数多くあり、今日は中国官僚との大喧嘩の部分をピックアップしましょう。この大喧嘩は、コマツが中国と仲良しになるための素晴らしい前奏曲だったと言って良いと思います。



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 ...IISTの修学旅行で、アメリカ各地を巡った後、国務省高官から中国に関する話を聞き、米中の国交回復も近いなと予想していたので、ニクソン大統領(当時)訪中のニュースにも、日本のマスコミほどは驚かなかった。
 そして、1972年、日中の国交が回復され、1978年には日中平和友好条約が調印される。この当時は、同じ共産主義国家でありながら、ソ連と中国の仲はよくなかった。条約に覇権条項を「入れる、入れない」と論議が長引いた記憶がある。中国は、当時のフルシチョフ第一書記のソ連を「覇権主義」と批判をしていた。
 日中国交回復の年、田中首相と周恩来総理との会談で「迷惑」という言葉が問題となった。歓迎式典で周恩来総理が挨拶した後、田中首相は戦争責任に触れ、「過去数十年にわたって、わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明する」と詫びたが、この中の「迷惑をかけた」という表現が、「軽すぎる。そのようなひと言で片付けられることではない」と非難を浴びた。
 私はこのことを、日本工業倶楽部の会報(2015年4月号、第252号)に書いた。矢吹晋氏の『日中相互誤解の濫觴』という論文の一部を紹介したのである。矢吹氏の論文は言う。「田中角栄首相の挨拶の中で“迷惑をおかけした”は、中国語では、“添麻煩”。これは、婦人のスカートに水がかかる程度の意味で小さくて軽い、と周恩来首相との間で論争があった。何とか喧嘩を収めた後、毛沢東主席との会談で、田中首相は“日本の言葉は中国から入ったとはいえ、これは万感の思いを込めてお詫びする時にも使う誠心誠意の謝罪です”と説明した。毛沢東主席は“喧嘩をしてこそ初めて仲良くなれます。わかりました。迷惑の言葉の使い方はあなたの方が上手なようです”と、贈り物として『楚辞集註』6冊を渡したそうだ」という内容だ。

 私にも、中国のお役人との間に喧嘩の経験がある。コマツと中国の技術交流の結果を、技術提携契約としてまとめ、中国に小松ブルドーザを生産する工場を建設しよう、という話になったときのことである。コマツと技術進出口総公司との契約交渉は難航して100日を費やした。
 中国では文化大革命が終結し、改革開放の時代に入っていた。鄧小平の「鞱光養晦」政策の始まりである。外国からの技術導入も、案件によっては問題がなくなり、我々の交渉が本格的に進んだ。私は建機第三部長として、ソ連、中国を担当していた。この交渉の途中、谷牧副首相が枚方のブルドーザ工場視察で来日した。私は、大阪のホテルから工場まで、先導のパトカーの後をノンストップで走り、ご案内した。後で知ったことだが、谷牧北首相は、中国工業近代化のため、当時のめぼしい外国の工業技術の視察を指導していたとのことだった。コマツの大阪工場でも、真剣かつ熱心に視察し、積極的に質問をされていたことを記憶している。
 さて、コマツと中国の技術提携交渉は、外国貿易省傘下の技術進出口総公司がプラント建設、技術導入契約の窓口であった。交渉の場には、機械工業部の技術者が背後に控えていた。コマツは海外事業本部の弓野専務が団長、私が副団長で契約条文の交渉に当たっていた。100日という長い交渉の間、弓野専務は時々帰国した。専務が留守の間は私が団長役を務めた。
 中国側の契約書原案は既に印刷されており、「これにただサインするだけだ」と公司の担当者は言ったが、中国側に都合のよい一方的な条項が多く、とてもすべては受け入れがたい。そこで、条文ごとの交渉が開始された。このやり方は、対ソ連の契約でも経験済みであった。また、私は同様の契約にあたっていたアメリカ会社の担当役員と情報交換を行っていたので、譲れない条項は、丁寧に理由を説明して、粘り強く交渉を続けた。最大の問題は、提供技術の範囲と対価、指導料であった。
 あるとき、先方の担当者から「安崎さん。あなたは、たかがブルドーザの技術提供ぐらいで、中国側に高い金を払えと要求するが、唐の時代の遣唐使に漢字や仏教を教えた中国は、日本から料金などもらわずに、ただで教えてあげたのですよ」と真顔で言われた。私はびっくりして相手の顔をのぞき込んだが、相手はケロッとした顔ですましていた。
 契約はいよいよ最終段階に入った。ほぼ合意が成立し、明日は調印式の段取りを相談しようというところまで漕ぎつけた。ところが翌日、全く別の人が現れ、「今までの交渉を白紙に戻す。日本企業との契約で、このような契約条項は認められない。交渉はやり直しだ」と宣言した。背後を眺めると、先方の技術者たちは困った顔をしているだけで、誰も口を開こうとしない。私は、さすがに頭に血が上った。生涯最高の怒りがおそってきた。三国志にあった「馬上憤死」の場面が一瞬頭をよぎった。心臓が破裂するのではないかというくらい激しく鼓動した。顔は真っ赤になり、呼吸も一瞬止まりそうになった。
「あなたは、100日の間、我々が真剣に交渉してきた結果を、中国政府を代表して、全く無視するのですか? とんでもない話だ。これでは、我々は交渉を取りやめ日本に帰ることにします。中国の近代化に貢献したいと、国産化を提案した、我々の善意を踏みにじるような交渉のやり方をするなら、この話はここで終わりだ」と言い放ち、当方の同僚や、先方の技術者たちが驚いて止めるのを振り切り、怒りに震えた呼吸を整えてから、一人退出してしまった。その日は宿舎に戻り、帰国のための荷造りを始めた。
 翌朝、先方から連絡が入った。「皆さん、ご一緒に来てください」とのことだった。怒りがまだ収まらない私だったが、帰国の挨拶はすべきだと思い直して出かけて行ったが、昨日の担当者はいない。技術者組の団長から、「先に合意した内容で話がつきました。契約調印の準備をしましょう」と言われて安堵の胸をなで下ろした。
 河合社長に連絡を入れ、社長と弓野専務に契約調印のため訪中してもらうことを決め、その日取りを決めた。社長と弓野専務の訪中を待ち、調印が無事終了した。調印式後の宴会に先立ち、先方の技術者組団長の副局長に「安崎さん。東洋の君子は、あのように顔を真っ赤にして怒り狂ったように話すものではありませんよ」と諭された。私は何も言えず、ただうなずくしかなかった。後で聞いたら、私のあまりの剣幕に、中国側がびっくりして矛を収めたと言うことだった。
 政治家と違い、喧嘩の仕方が下手な私の、若気の至りの結末であった。



不打不相交~和中国的100天商务谈判




前些日子分享了安崎会长将在中国出版の新书摘选"1杯让谈判增值100万美元的伏特加~请勿盲目模仿”,是安崎会长年轻时作为一名小松人在苏联的一段“不打不相交”的经验之谈。
说到“不打不相交”,本书里另外还有不少经验之谈,今天就分享一段他与中国官僚之间的一场精彩大战。这场大战,可以说是一段促成了小松与中国相知相交的精彩的前奏曲。


...参加IIST修学旅行、遍访美国各地之后,从国务省高官关于中国的发言当中,我预感到中日恢复外交关系之日已经为时不远了,因此当我看到当时的尼克松总统访问中国的消息时,并没有像日本的媒体那么震惊。
 之后,1972年,中日恢复了外交关系,1978年两国签订了中日和平条约。当时,苏联和中国虽然同为共产主义国家,关系却已经产生了裂痕。记得双方围绕是否将霸权条款写入条约里产生了分歧,讨论因而被延长。中国批判当时的赫鲁晓夫第一书记领导的苏联实行“覇权主义”。
 在中日恢复外交关系那一年,田中首相与周恩来总理之间的会谈中,“迷惑”这个词成了一个问题。周恩来总理在欢迎仪式上致辞后,田中首相提及战争责任问题并进行了道歉:“在过去的数十年里,我国给中国国民添了极大的麻烦(麻烦的日语:迷惑),我对于此段历史,再次表示深切的反省之意”,然而,道歉发言里的“添了麻烦”这个表诉受到了中方的非难“那么轻描淡写的一句话不可能大事化了吧”。
 我曾在日本工业俱乐部的会报(2015年4月号、第252号)上写过这件事情,介绍了矢吹晋氏的题为《探寻日中相互不信任的原点》(日语书名:《日中相互誤解の濫觴》)的论文里的部分内容。矢引氏在论文里说:“田中角荣首相的讲话之中的“迷惑をおかけした”,这在中文里的意思是“添了麻煩”。听起来只不过像把水撒到了女人裙子上的程度,给人以轻描淡写的感觉,因此与周恩来总理之间产生了争论。双方争论终于平息下来之后,在与毛泽东主席的会谈之中,田中首相就这个日语词做了如此说明:“日本的语言虽然是来自于中国,然而,这个词也能用于百感交集道歉之时,用于诚心诚意谢罪之中”。毛泽东主席回答:“不打不相识,明白了。看来还是你们善于使用迷惑这个词”,并作为礼物,向田中首相赠送了一部《楚辞集注》6冊。

 我也有过与中国的官僚争吵的经验。那是小松与中国进行技术交流,已经做好了技术提携契约,正要达成协议在中国建设工厂以生产小松推土机的时候。关于这份契约,小松与中国技术进出口总公司之间的谈判工作进展不顺,所以整整花费了100天。
 文化大革命结束了,中国进入了改革开放的时代,邓小平的“韬光养晦”政策随之开始实施。如此一来,从外国引入技术方面的有些问题得以解决,我们的谈判工作也得到了实质性的推进。我作为建机第三部长,负责苏联、中国方面的工作。在这场谈判工作之中,谷牧副总理来日视察了枚方的推土机工厂。我负责自大阪的酒店到工厂的向导工作,跟在前面开路的警车之后,马不停蹄地忙前忙后。后来我得知,为了推进中国工业近代化,谷牧副总理主导了前往外国视察先进工业技术之事。记得他在小松的大阪工厂,也极为认真热情地视察现场、并积极地提出问题。
 却说小松与中国的技术提携谈判,负责成套设备以及技术导入契约工作的窗口是外国贸易部属下的技术进出口总公司。在谈判现场,中方有机械矿业部的技术人员待命。小松方则是访中团长、海外事业本部的弓野专务以及副团长的我参与契约条款的谈判工作。在长达100天的谈判期间,弓野专务时而回国,专务不在的时候,由我代行团长之职。
 中国方的契约书草案已经打印了出来,“在这上面签字就行”,中方公司的担当者如此说,然而很多条款的内容都是利于中国方面、对于日方而言难以完全接受。因此,我们开始逐条进行交涉。这个方法,来自于与苏联签署契约时积累的经验。另外,关于那些小松与美国公司契约中内容相同的部分,我与美国公司的担当董事互通了信息,因此针对不能让步的条款,我耐心细致地向对方说明理由、进行了持之以恒的交涉工作。最大的问题在于提供技术的范围、中方支付给小松的价格以及技术指导报酬。
 有一次,对方的担当一本正经地对我说:“安崎先生,你们最多不过给我们提供推土机技术而已,就向中国索取高额报酬,而中国向遣唐使传授了汉字和佛教,却并没有向日本要钱、免费教给你们了哦”。我吃惊地探头看他的脸色,他像啥事没有似的不了了之了。
 契约的谈判工作终于进入了最后阶段,合意几乎都已经达成、正在打算第二天商议签字仪式的事情。然而到了第二天,来了一位从没有露过面的人,宣称“至今为止的谈判完全取消。与日本企业之间的契约里,这样的条款不能放入。谈判必须从头开始”。看他的背后,对方技术人员们虽然脸色犯难,但是谁也不开口。这还了得,我一下子冒火了。前所未有的愤怒向我袭来。一瞬间,三国志里王朗马上愤死的场面涌上心头。心脏就像即将破裂似地剧烈跳动,脸色发红,呼吸也几乎要停止了。
“你能代表中国政府,全部无视我们辛辛苦苦100天,脚踏实地、认真谈判得出的结果?太荒谬了。这样的话,我们也停止谈判、回日本。我们怀着为中国的近代化做贡献的意愿,提出了小松产品在中国国产化的建议,而你却如此践踏我们的善意,这话就到此为止”,我丢下这些狠话,不顾大吃一惊的我方同僚以及对方技术人员们的阻拦、整理了一下气得哆嗦的呼吸、一个人离开了。那天回到宿舍、开始打点行李准备回国。
 第二天早上,听说对方有消息来了,是“请大家一起来”。我虽然怒气还没有平息,不过想到回国之前的道别还是应该进行的,于是就去了。昨天那位担当不在场。技术人员组的团长说:“就按照先前达成共识的内容办。准备签字仪式吧。”,听了他的话,我放下了心头大石。
 接下来我联系了河合总经理、与他商量后决定让弓野专务赶赴中国出席签字仪式、并定下了日程。然后等来了弓野专务、顺利地完成了签字仪式。在签字仪式后、宴会开始之前,作为对方技术人员组团长的副局长对我谆谆教诲:“安崎先生,东洋君子不应该那样满脸通红、勃然大怒地说话哦”。我除了点头认可什么也说不出来了。后来听说,我那异乎寻常的汹汹气势让中国方面大吃一惊后偃旗息鼓了。
 没有政治家的手腕、没有吵架的技巧,幸得血气方刚成全了我。


2017年12月9日土曜日

中国関連の仕事に就こうと決意


 9月に中国で出版された安崎会長の著作「夢を蒔く」(中国語版は、中国側出版社の主張により「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名となっています)の内容を抜粋してきました。
 主に、正文から中国にかかわるコンテンツをピックアップしてきましたが、内容がばらばらになってしまっているので、先月遡って2回に分けてまえがきと序章を掲載しました。
 これからも2、3週間1回の頻度で本書コンテンツをピックアップして掲載していきます。

中国関連の仕事に就こうと決意



 大学での授業は楽しかった。特に、歴史学、哲学、心理学、経済学、地理学の講義には学問的興味をひかれた。しかし、一時は実業家になろうと思っていた私だが、入学当時は経営学、会計学、商法、労務管理などの実学には全く興味を持てなかった。またまた、実業の世界を目指すのか、学者の道を選ぶのかを迷い始めた。
 何か運動もしなければと思い、弓道部に入り、弓を引く楽しさを覚えた。
 1年生の夏休み、道場で弓の練習をしてから図書館へ行った。そこに、渋沢栄一の顔写真付のポスターを見つけた。渋沢栄一についての論文募集のポスターだった。彼は、一橋大学の創設者の一人で、明治時代の日本を代表する実業家ということは知ってはいたが、それ以上の知識は皆無だった。早速その日、図書館で彼の伝記を読んだ。
 幕末の少年時代、勤王の志士を目指し、その後、西欧視察、明治維新の大変革に加わり、国立銀行、証券取引所、ガス事業、損害保険など次々と事業を興し、民間企業発展の基礎を築いた。同時代の岩崎弥太郎のように三菱財閥を作るのでもなく、政府から金をむしり取るのでもなく、論語と算盤の二刀使いを説いて、日本資本主義の父と呼ばれた。彼に関する本を何冊か読み、論文をまとめて懸賞に応募した。入選はしなかったが佳作に選ばれ、いくらかの賞金を手に入れた。「論語と算盤」という彼の主張に触れたのは、このときが最初だった。
 外国語の講義は、英語が必須で、そのほかに第二外国語を受講しなければならなかった。ドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語、中国語の中から選ぶのだ。ドイツ語を選択するのは主流派だ。ドイツ語は新宿高校の時代にかじった。一度やったから楽かとも思った。何となく惹かれたのは中国語だった。漢詩を祖父に習ったこともあり、読んだことのある三国志、水滸伝にワクワクした記憶もある。中国は、1949年に共産党政権が成立したばかりの新しい国だった。人口の多さを考えると、将来役に立つかもしれないと思い、結局中国語を学ぶことにした。
 一橋大学は、一学年750人という小さな大学だったが、ロシア語、中国語を選択する学生は少数派だった。中国語は、日本人の熊野教授、中国人の斳先生、二人の先生に学生はわずか6人。とても家族的雰囲気で中国語を習い始めた。最初に口ずさんだ中国語は、「花紅柳緑 春天暖和 夏天熱 秋天涼 冬天冷」だ。未だにしっかり記憶している。
 ゼミナールは熊野正平(熊野中国語大辞典の著者)、石田龍次郎(人文地理)、山田雄三(理論経済学)の諸先生に学んだ。上原専禄、増田四郎先生などの歴史家、中山伊知郎、高島善哉先生などの経済学者の講義もおもしろかった。
 私は、中国の将来に関する関心を強く持っていた。この国の政治と経済、人民の生活はどうなるのか、共産主義と中国人の考えは合うのか、世界の中でどのような立場を取るのかなどを考え、中国専門の学者になって生涯研究を続けたいなどと夢想していた。建国間もない、中国の事情をもっと知りたくて、神田の中国・アジアの専門書店である内山書店にも時々行って、雑誌などを買っていた。
 大学4年になっても、まだ学者になるか、経済人になるかを決めかねていた。そこで、卒業後に学士入学で経済学部に編入してさらに2年間学ぶことにした。大学院への進学ではなく、学部を二つ回る選択をしたのは、まだ将来を決められなかったからだ。経済学部系の学問、社会学、哲学、歴史学などの人文科学系の学問のどちらにも興味があった。そして都合、6年間の学生生活を楽しむことになった。経済学部でも弓道部の活動は続け、成長経済学、経済発展理論を勉強した。ここでもよい先生にも恵まれていた。中国経済の実態を、ユニークな視点で分析する小島麗逸さんとは80歳のいまも交流が続いている。
 山田雄三教授には、「中国経済をやるにしても、ケインズやマルクスだけでなく、ハイエクも勉強しろ」とアドバイスを受けた。学問の道も厳しい。自分の中の怠け者精神に気づき、結局学者になることを諦めた。一生、学問に明け暮れるほどの根性は自分にはないと判定し、実業の世界を選んだのだった。
 卒業後、どのような会社に入ろうかと考えた。何となく中国との関係が深くなりそうな会社を選ぼうとは思っていた。先生や知人は、貿易金融の東京銀行を勧めた。このほか、鉄鋼、肥料、海運、商社、機械などどの業種から選ぼうかと模索した。ある先輩は、「一橋の学生は金融と商社に行くやつが多すぎる。もっとメーカーにも目を向けろ」と言った。そういえば、渋沢栄一も金融だけでなく産業を大事にしろと言っていたなと思い出した。(続き)

决意从事与中国相关的工作

我的大学生活过得极为愉快,尤其对历史学、哲学、心理学、经济学、地理学的讲座感兴趣、学习热情高涨。然而,一时老想着成为实业家的我,入学当初对于经营学、会计学、商法、劳务管理等实践科学却毫无兴趣。所以我又开始犹豫,是以进入实业界为目标,还是应该走上治学之路呢?
 考虑到必须参加体育运动,我加入了弓道部、尝试了拉弓的乐趣。
记得在一年级时的暑假里,我先到练功场练习拉弓,然后去图书馆。在那里看到了载有涉泽荣一脸部照片的海报,那是关于涉泽荣一的论文征稿的海报。他是一桥大学创设人之一,是明治时代日本的代表性实业家,当时我对他的了解仅限于此。那天我在图书馆赶紧读了他的传记。
 他在幕府末期的少年时代,立志成为勤王志士,后来参与了西欧视察、明治维新等重大变革、开创了国立银行、证券交易所、煤气事业、损害保険等等一些列事业,为民间企业的发展打下了基础。他没像同时代的岩崎弥太郎那样建立三菱财阀之类、也不曾花费心思向政府索取资金,而是力主论语和算盘的两立。他被尊为日本资本主义之父。接下来我又读了另外几本关于他的书,写了论文应募奖品。虽然没能入选,却入围佳作,获得了一点奖金。这是我初次接触他关于“论语与算盘”的主张。
 外语学习,英语为必修课,除此之外还需要从德语、法语、西班牙语、俄罗斯语、中文这些外语之中选修一门第二外语。选修德语为主流派。德语,我在上新宿高中时代曾经学过,因此想来要是重新学习应该比较轻松。然而,我却总是不由被中文吸引。我曾向外祖父学习汉诗,读过三国志、水浒传,这些记忆都极大地刺激了我。新中国随1949年共产党政权成立而建国不久。因其人口众多,想来中文将来应该用得上,所以我最终决定了选修中文。
 当时的一桥大学只有一学年750人的规模,选修俄语和中文的学生也为数极少。教授中文的只有日本人熊野教授和中国人斳先生二人,学生仅仅6人。我就是在如此家庭氛围之中开始了中文的学习。最初吟咏的中文有“花红柳绿 春天暖和 夏天热 秋天凉 冬天冷”,这些句子到了今天依然记忆犹新。
 我参加了熊野正平(熊野中国语大辞典的著者)、石田龙次郎(人文地理)、山田雄三(理论经济学)诸位老师的研讨会,广泛地学习知识。上原专禄、增田四郎先生等历史学家、中山伊知郎、高島善哉先生等经济学家的讲座听起来也妙趣横生、受益匪浅。
 另外,我对中国的未来的兴趣也愈发浓厚了。这个国家的政治与经济以及人民的生活将如何改变、共产主义思想是否适合于中国人的观念、在世界中处于何种立场等等,思考着这些问题,我梦想着自己成为研究中国的专家、终生从事于中国研究工作之中。为了深入了解刚刚建国的中国,我时而去神田的中国及亚洲专业书店内山书店购买杂志等相关资料。
 直到升入大学4年级,我还在为该踏上学者之路、还是商界之路而犹豫不决。于是乎,最终我决定在毕业后参加学士入学考试、编入经济学部继续学习2年。之所以没选进入大学院攻读硕士、而是选读两个不同的学部,也是因为尚未做出决定将来该走哪条路的原因。我对经济学学问、以及社会学、哲学、历史学等人文科学学问都颇感兴趣,这使得我愉快地度过了6年大学生活。进入经济学部后,我一边继续参加弓道部的体育活动,一边学习成长经济学、经济发展理论。在这里也有幸得遇一位好老师、以独特视点分析中国经济实态的小島丽逸老师,到了80岁的现在,我与这位老师还保持着联系。
 山田雄三教授亦给了我建议:“学习中国经济,别只是研究凯恩斯和马克思,哈耶克的理论也该学学”。后来感觉学问之路也是坎坎坷坷,更发现自己的懒惰性情难以克服,因此终究放弃了成为学者的打算。自认为没有足够的毅力去终生致力于做学问,于是选择了进入实业界这条人生之路。
 我开始考虑毕业后该进入什么样的公司,总觉得该选择那种与中国有密切关系的公司。有些老师和熟人向我推荐贸易金融业界的东京银行。另外,我也试着想过从钢铁、肥料、海运、商社、机械等业种里求职。有位前辈对我说:“进入金融公司和商社的一桥大学学生太多,多看看厂家吧”。这话让我想起,涉泽荣一先生也说过,不仅要重视金融,也应该重视产业之类的话。(待续)

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2017年11月25日土曜日

百年小松、若さ健在—序章~「夢を蒔く」から


 9月に中国で出版された安崎会長の著作「夢を蒔く」(中国語版は、中国側出版社の主張により「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名となっています)の内容を抜粋してきました。
 主に、正文から中国にかかわるコンテンツを数回ピックアップしてきましたが、内容がばらばらになってしまっているので、先々週から少し体系的にできるのかと考えながら、ページをめぐるとまえがきや序章にに辿り「これです!」と思いました。
 そして、先々週掲載したまえがきの続きとして序章を掲載しましょう。

百年小松、若さ健在


 もうすぐ2021年がくる。中国はおそらくこの年に中国共産党創設100周年を盛大に祝うであろう。
 コマツは日本で、また世界中の拠点で小松製作所創立100周年を祝賀する。2021年にはどのような発展を遂げているであろうか。
 この不思議な縁は、私自身についても言えることだ。私がコマツに入社した理由の一つが、中国関連の仕事に就きたいとの思いだった。私は、大学生活を6年間送ったが、第一外国語の英語以外に、第二外国語を選択する必要があった。多くの学生が、ドイツ語、フランス語、スペイン語などを選択する中、私は中国語を選んだ。子供の頃、祖父に漢詩を習ったこと、三国志、水滸伝などのおもしろさに惹かれていたことが選択理由の一つだった。中国語の授業は、先生2人に学生6人という小さなクラスだったが、家族的な雰囲気の中で楽しく学ぶことができた。「今は中国とは国交がないけれど、そのうちに中国と密接な関係になる」という先生の言葉もあり、勉強には熱が入った。
 就職の時期が迫り、「コマツは機械メーカーだから、中国とビジネスをする機会がある」という期待が、入社の動機でもあった。入社後の夢は「北京事務所長になること」と勝手に描いていた。この夢は果たされることなく、夢で終わったが、その後、私の会社生活の節目、節目で私は、中国とのビジネスに関わることになった。
 1972年9月に日中国交が回復した。翌年私は、当時の社長であった河合良一さんに、「中国にブルドーザ工場を作りましょう」と提言した。その後、何度も中国を訪れ、交渉を繰り返し、コマツと中国人技術者たちとの技術交流を重ねていった。
 そして、私が社長になった1995年には、中国に「小松常林建機公司」「小松山推建機公司」「小松常林鋳造公司」を設立、翌年には「小松(上海)有限公司」を設立、中国内での生産・販売拠点を増やしていった。
 コマツの海外進出の基本思想は、「現地での経営は、現地の人に任せ、日本人はそのサポートに徹する」ということである。そして、他の諸外国で行ったのと同様に、中国の拠点でも中国人に経営トップを任せたが、彼らは見事に大きな成果を挙げた。
 中国での経営は「コマツウェイ」という、全世界のコマツ経営の根幹をなす理念に基づいてはいるが、中国という国の特性にふさわしい方法で実践している。だからこそ、経営は現地トップに任せるのである。しかし、「よいモノをつくる」という、コマツの遺伝子だけは、どこの国であっても変えることはない。あくまでも、日本発の技術の種を各地に蒔き、それぞれの国で大きな花を咲かせようと努力を続けるのである。
 本書では明治維新後の日本の近代化の活動の中から、コマツの原点とものづくりに賭けた遺伝子を探り、第二次世界大戦後の復興を下敷きとし、その後に続くグローバル化の動きを、私自身が経験した事をベースにしながら、ものづくりとは何か? ビジネスとは何か? 会社とは何か? 世界はこれからどうなるか? どうあるべきか? などに対する私なりの答え出していこうと思う。この答えが正解かどうかはわからないが、読者の皆さんが、これらのことを考えるヒントにはなるであろう。
 さらに、私がこだわりを持ち続けてきた中国との関係に関しても、体験をベースにお伝えしていきたい。私は、極端な嫌中派でもないし、親中派でもない。中国という大国の可能性と現実の姿をできるだけ冷静に見つめ、日本と隣国である中国の相互理解に、私のできる範囲でのお手伝いをしたいと考えている。この考えは、コマツの社長在任中も、引退後の今も変わりがない。
 現在私は、日中交流和華会の会長として、日中草の根交流のサポートをしている。日本と中国に共通する文化、それぞれの国で花開いている素晴らしい文化を、お互いの国民が知ることで、両国の距離はもっと近いものになるだろう。そのような考えで、政府間の関係とは別の、民間レベルでの相互理解を深めることが、両国の未来にとってとても重要なことではないだろうか。
 長年企業経営に携わってきた私ができるのは、現在中国で企業を経営している人たち、そして、将来そのような仕事に就きたいと考えている人たちに、私の数々の経験から学んだことを、率直にお伝えすることだと考えている。

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 本博连续几次摘选分享了9月在中国出版的安崎会长的著作《夢を蒔く》(中文版由于中国出版方的主张书名由《播种梦想》改为:《机械巨人小松 无所畏惧的信念》)里的内容。
 摘选内容主要是与中国有关的部分,不过觉得有点杂乱,所以上上周一边考虑怎么理顺一边翻书,当翻到前言以及序章时猛然感觉“就是这里了!”。
 因此,今天继上上周发表的“前言”,接下来分享“序章”部分的内容。

百年小松,依旧年轻

2021年,小松将在日本、也将在全世界的各个据点庆贺小松制作所创立100周年。2021年的小松会发展成什么样呢?我将翘首以待。
 人生之中,不可思议的缘分时而会不期而至,我的自身经历也足以证明了这一点。我进入小松的理由之一是出于希望从事与中国相关的工作这个念头。在我6年的大学生活里,除了第一外语英文,还需要选择第二门外语,许多同学都选了德语、法语、西班牙语等,而我却选了中文。在我儿时,与外祖父学习汉诗、三国志、水浒传等,这些文化深深引发了我的兴趣,成了我选修中文的理由之一。中文课由老师2人和学生6人组成,班虽小却充满家庭似的氛围,让我得以愉快地学习。记得一位老师如此说:“现在日本虽和中国没有外交关系,但是不久与中国的关系一定会紧密起来”,他的话大大激发了我的学习热情。
 就职的时期来临了,“小松是机械厂家,会有与中国做生意的机会”,这个期望成了我进入小松的动机。刚刚进入公司的时候,我有个梦想,就是天马行空地暗自想象着自己“成为北京事务所长”的前景。虽然这个梦想未能成真,以梦开始以梦结束,但是之后我在职业生涯之中却迎来了一个又一个转折点,终于开始从事与中国有关的事业。
 1972年9月,日中恢复了外交关系。第二年我向当时的河合良一总经理提出了“在中国建造推土机工厂”的建议。之后我多次访问中国、反复进行交涉工作、持续着小松与中方技术人员之间的技术交流工作。
 再往后,我于1995年就任总经理后,在中国设立了小松常林建机公司、小松山推建机公司、小松常林铸造公司,第二年又设立了小松(上海)有限公司,逐步增加了中国国内的生产以及销售据点。
 小松在进入海外之际的基本思想为:现地经营交与现地人员、日本人只负责业务支援。因此,和在其他各国的做法同样,我们在中国据点也任用中国人为经营上层干部,他们也不负厚望,努力工作、奋发图强、取得了极大的成果。
 中国的经营,也是建立在小松模式这个支撑起全球小松经营大厦的基本理念之上。不过在中国,却是采用了符合这个国家特殊国情的合适方法而得以实现。正因如此,中国的经营工作是全权放手交给当地选用的高层干部。然而,只有“制造优良产品”这个小松的遗传基因,无论在哪个国家也不会任其变异。归根结底,小松将日本的优良技术之种子撒播到世界各地,为了它们在被播下的国度里开花结果而坚持不懈地努力着。
 本书旨在从明治维新之后日本的近代化历程之中,探索萌芽于小松起点既产品制造活动之中的遗传基因,并以第二次世界大战结束后的复兴为铺垫,以我自己的亲身经历为素材,对随之而来的全球化动向进行解读。何为产品制造?何为商业?公司是什么?世界今后将何去何从、应该是什么样子?我将针对这些问题,力图给出我的回答。我的回答是否正确虽然不胜明了,但是想来对于同样会面对这些问题的读者而言,应该有所启示。
 此外,本书还将以我的自身经验为基础,阐述我常年以来尤为关注的中日关系。我关注中国这个大国的可能性及其现实状态、并愿为日本和邻国中国的相互理解做一些力所能及的工作。在我就任小松总经理期间以及在我引退后的今天,这个想法都没有丝毫动摇和改变。
 现在的我,作为日中交流和华会的会长,推行着一些日中草根交流工作。通过加深两国国民对日中共通文化以及两国多彩多姿异文化的理解,应该能够对缩短两国之间的距离做出一点贡献。基于这个想法,我姑且撇开两国政府之间关系这个难题,身体力行地致力于深化民间层次的相互理解这项对于两国的未来至关重要的工作。
 长年从事企业经营的我,愿向现在的中国企业经营者、以及希望将来也从事企业经营工作的读者们直抒胸臆,讲诉我从工作经验中所学之物。衷心希望对读者诸君能有些许参考价值。

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2014年7月15日火曜日

安崎会長、SIA(システムイニシアティブ協会)主催講演会で講演

去る7月10日18時~20時30分まで、SIA(システムイニシアティブ協会)の主催講演会で、本研究会安崎暁会長は「日本型ハイブリッド経営の一例~情報技術と経営の融合」をテーマとする講演を行いました。
出席者は、60名近く、経営者がほとんどです。

当日18時~19時20分は、安崎会長の講演。休憩後、20時30分までは熱々な質疑応対でした。

まず前置きとして、「新陳代謝」という言葉が好きで後進の邪魔をしないことを徹底してますが、なぜ引退した自分が居るべきでないここにいるのかを少しご説明がありました。
それは経済人引退後実践中の「三国志」生活スタイルによる~残りの人生の若干の時間とお金を世の為・人の為、家族の為、自分の為と3等分にして、日中交流促進の仕事をしているうちに出会った片貝さんや和華編集長孫秀蓮さん達の繋がりで今日は「世の為・人の為」に、ここにいる経緯をご説明なさいました。

それから、90年前に遡りコマツ創業者の経営DNAの紹介から本論に入り、1995年自分が社長になってからコマツの優れた経営DNAの継承をしながら、新しい時代を生き残る為の「情報武装」などの方針刷新や実際的な取組みなどを語りました。「情報武装」の成果として、世界中の鉱山などで大活躍しているコマツ機械のご紹介でした。これが凄過ぎる!情報技術を経営管理に結びつけに大成功したコマツの無人操作機械を導入した鉱山経営者は、従業員を大量に雇う必要がなくなったため、従業員や家族のために住宅、道路、学校などのインフラー構築の必要もないのです。



本論をもっと詳しく書こうとしましたが、実に素晴らしくてありがたいレポートに出会えました。片貝情報システム研究所メンバーの丸山有彦先生のブログ投稿です。

丸山先生は、文章コンサルタントとして、会社の経営層を対象とする日本語のバイエル講義などをされている方で、安崎会長の講演を聞きながら速記スキルを用いメモを取って、翌日から安崎先生の講演内容を再現しています。情報技術と経営の融合という今回の主題に止まらず、脱線談の人材育成や質疑応答などの内容まで再現しています。大変感心いたしました。もうレポートをこれ以上書く必要がないと思っております。

木内様、桶田様など、Facebook投稿者やコメンテーターが多数いっらっしゃいますが、残念なことに彼らが自分のFacebookを外部への公開設定をされていないためリンクが貼れませんが、皆様がこの講演会に出席して良かったというお気持ちはたっぷり伝わって来ました。

▼丸山先生のブログ投稿です▼

文章コンサルタント 丸山先生ブログ 「安崎暁コマツ元社長のお話」

文章コンサルタント 丸山先生ブログ 安崎暁コマツ元社長のお話のつづき(2/3)

文章コンサルタント 丸山先生ブログ 安崎暁コマツ元社長のお話のつづき(3/3)


-----以下中文-----

7月10日18点~20点30分、本研究会安崎晓会长应邀在SIA(システムイニシアティブ協会)举办的讲演会上进行了以「日本型混合经营的一例~信息技术和经营的融合」为主题的讲演。

出席者将近60名,几乎都是经营者。
当天18点~19点20分为安崎会长的讲演。休息后,到20点半为止是讲师和与会者之间热烈的问答时间。

首先安崎会长在开场白里,对于喜欢「新陈代谢」一词的自己引退后的今天为什么出现在自己不该出现的地方进行了简要的说明。

他谈及这起因于他从经济界引退后实践中的「三国」生活方式~将余生若干的时间以及金钱的用途三分“天下”:为了世界・为了他人,为了家族,为了自己。在这个“三分天下”生活方式实践中因中日交流工作关系而与片贝先生以及和华编辑长孙孫秀莲结缘...以至于今天站在了这里。

其后,他回溯到90年前,从介绍创业者的经营DNA进入正题,继而讲述了自己于1995年成为社长之际,在继承小松优良的经营DNA的同时,也致力于包括“信息武装”等社长方针刷新及推进工作以寻求新时代的企业生存之路等等实战经验。作为“信息武装”的成果,他介绍了大大活跃于世界各地矿山等地的小松机械,确系不同凡响!对于导入了将信息技术与经营管理元素成功融合的小松无人操作机械的矿山经营者而言,他们不需要大量雇佣员工,因此也省却了为员工以及家人建设住宅,道路,学校等等基础设施的资金投入。

本想更详细记载正题内容,不过却发现了一份非常了不起的报告。这份报告是片贝情報システム研究所成员之一的丸山有彦先生的博客投稿。丸山先生作为文章咨询顾问,从事于以日本公司经营层为对象的书面日本语文法授课等工作,他一边听安崎会长讲演一边发挥其速记技能,从第二天开始竟将安崎先生的讲演内容再现于自己的博客,再现内容不局限于本次主题,还包括了本次主题以外的人才培育,问答内容等等,实在令人感动。有了他详尽的报告,我感觉没有必要再写下去了。

虽然木内先生、桶田先生等众位朋友在Facebook上投稿以及发表评论,遗憾的是他们没有将自己Facebook设定为向外部公开状态,因此不能在此粘贴他们投稿的链接,不过他们的投稿以及评论都充分表达了他们出席这次讲演会受益匪浅的心情。

2017年7月25日火曜日

大学時代、関心は現代中国に~「夢を蒔く」からの抜粋

前回は、コマツ製品の中国での国産化を提案した安崎先生の善意と燃えるような熱意がどこから生まれたのかに対して、来月中国で出版予定の新書で回答を探ってみました。すると、「子供時代から抱いていた中国への興味」という章節の、「祖父の漢詩が、中国へ誘った」部分に辿り着きました。
今日は、その話の続きになります。今日の抜粋内容から、著者が子供から大人へ成長し興味が変わったように読取りますが、中国というキーワードが変わっていないため、むしろ子供時代興味津々だった古代中国文化への夢のような興味が現実味を帯びてきて、キャリア形成に繋がったと言えよう。


大学時代、関心は現代中国に



 中国への関心は、大学時代の第2外国語選択の際に、躊躇なく中国語を選ばせた。大学生活の6年間、中国語を学び続けたが、大してものにならなかった。しかし、その後の60年の今日に至るまで、中国、および中国人に対する興味を持ち続ける入口となったのは、この学習経験だ。中国の専門家にはならなかったが、政治、経済、社会、文化などの複眼的視点で中国を理解し、変化を観察する喜びを与えてくれた。中国に住んだ経験はないが、通算40回ぐらいは中国各地を訪問し、多くの人々と接することができた。
 中国のみならず、旧ソ連、ロシア、アメリカにも、たびたび出張で出かけたが、日中、露中、米中それぞれの2国関係、そして、日中米露という多国間関係から、中国を分析する視点を持てたことが、私の中国理解に大きな助けとなった。国土は広く、人口も多い。私は、「群盲撫象」のたぐいの一人だが、中国の存在が、私の人生に鮮やかな彩りを加えてくれたことは間違いない。
 1958年、私がまだ大学生のころ、一橋大学OBである船会社の大社長が大学に講演に来た。日本と中国との国交はまだ回復していなかった。北京に毛沢東の共産党政権ができて間もないころであった。
「若い学生諸君よ、隣国である中国に関心を持て。いまは国交もないが、将来の日中関係は必ず飛躍的に発展する。隣の大国とどうつきあうかが今後の課題。中国は、日本にとって大事な隣国である」との先輩の言葉に、現在の中国の様子をもっと深く知りたい、という思いはますます強くなった。
 中国語を学びながら、中国に関する情報には、ことさら注意深く耳を傾けるようになっていた。大躍進、人民公社、文化大革命……これらのキーワードを目にするたびに、心を躍らせていたが、親や家族より国が大事、という文化大革命の理念には半信半疑であった。
 中国に関する本もたくさん読んだ。魯迅の小説には惹かれるものがあった。歴史学者である宮崎市定の孫文との交友録も図書館で見つけた。
 子供のころは、漢詩、三国志などの昔の中国に興味を持っていたが、年を重ねるにつれ、現代中国へと関心が変化してきた。

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上篇博文里,对于提出小松产品在中国国产化建议的安崎先生那份善意以及近乎燃点的热情是如何产生、又是如何高涨近乎沸点,求问下月将在中国出版的新书,我在“萌芽于孩提时代的中国情结”这一章节的“外祖父的汉诗,诱发了我对中国的兴趣”这部分文字里找到了答案。
今天继续这个话题。从今天的摘选看来,著者随着长大成人、兴趣似乎也发生了变化,然而“中国”这个关键词却并没有改变,因此与其说是兴趣的变化,不如说著者随着年龄的增长,梦境里吸纳进了现实性的养分,孩童时代那份对古代中国文化近乎梦幻般的兴趣渐渐转化、对其职业生涯产生了极为良好的作用。

大学时代转向关注现代中国

对中国的兴趣,让我在大学时代选择第二外语的时候,毫不犹豫地选择了中文。在6年的大学生活中,我一直坚持学习中文,然而觉得学到的东西远远不够。不过正是那段中文的学习经历,让我在迄今为止的整整60年里,对中国以及中国人的浓厚兴趣经久不衰。虽然没有成为研究中国的专家,但是却由于养成了多角观察政治、经济、社会、文化等的习惯,让我对中国的理解以及观察活动变得驾轻就熟、其乐无穷。虽然从未在中国生活过,但是大约共计40次访问中国各地,得以接触了很多人物。
不仅是中国,由于也经常出差旧苏联、俄罗斯、美国,所以我从中日、中俄、中美,这些2国关系、进而从中日美俄多国关系出发对中国进行分析的视觉,都大大地深化了我对中国的理解。不过中国国土辽阔、人口众多,因此我对中国的了解只不过如盲人摸象的程度,然而毫无疑问,中国的存在,让我的人生之路如此多姿多彩、充实饱满。
 1958年,我还是大学生的时代,有位一桥大学退役前辈、某造船公司的总经理到大学演讲。那是日本和中国还没有恢复外交关系,毛泽东的共产党政权刚在北京建立不久的事情。“年轻的学生诸君们,要关注邻国中国。现在两国虽然还没有外交关系,但是将来中日关系一定会有飞跃性的发展。如何与邻国大国打交道,是今后的课题。中国对于日本而言,是非常重要的邻国”,这位前辈的话激活了我想更加深入了解中国现状的愿望,这种愿望越来越强烈了。
 于是我一边学习中文,一边事无巨细地倾听、收集有关中国的信息,这渐渐地成了一个习惯。大跃进、人民公社、文化大革命……每当看见这些关键词,心就会激荡起来,但是对于国家高于父母或者家族这种文化大革命的理念,我却是半信半疑。
 与中国有关的书籍我也读了很多。曾被魯迅的小说吸引。在图书馆还发现了历史学家宮崎市定写的他与孙文的交友录。
 如此这般,我孩童时代对汉诗、三国志等古代中国的兴趣,随着年龄的增长,转变成了对现代中国的关心。

2014年8月29日金曜日

コマツ元社長安崎先生新書発表会 at 上海書展

 2014年8月16日、世界500強グローバル企業コマツ元社長安崎暁先生は、上海書展で新書発表兼講演を行いました。

 当日、上海展覧中心二号活動エリアに空席がないほど大勢の方々はご来場され、安崎先生が友人との合著「日本型ハイブリッド経営」のアップグレード中国語版《聚变》のご紹介、安崎先生の講演、重量級ゲスト間のパネルディスカッション、来場者とのFace to faceコミュニケーション等が行われ、活気溢れる盛会となりました。

 ご来場された重量級ゲストは下記の通りです。
・世界500強グローバル企業 コマツ 元社長安崎晓先生
・小松(中国)投资有限公司 王子光総経理
・上海交通大学安泰经济管理学院 费一文教授
・米国 ハーレーダビッドソン(Harley Davidson)中国地域高瑾馨総裁

 主催者関係者達や素敵な同時通訳徐先生の努力により、安崎先生の講演及びゲストのパネルディスカッションが順調に進み、時間を稼げてゲスト達と聴衆間の対面コミュニケーションや安崎先生への署名リクエストへの対応がうまくできました。
パネルディスカッションでゲスト達は、トップレベルのグローバル企業家やグローバル経済学者としてそれぞれの角度から、経済のグローバル化を背景にする企業経営についてご発言なさいました。

費一文教授は、特に「企業の競争相手は同業他社ではなく世の中の変化だ」という《聚变》の真髄部分について深く言及され安崎先生にかなり共鳴していました。なお、産業と金融のバランス関係について、費教授は料理作りに使われる材料と調味料のバランスコントロールに譬え、安崎先生は人間の両足のバランスコントロールに譬え述べましたが、こちらにもお二人の共感を沢山感じ取れました。

 小松(中国)投資有限公司の王子光総経理は、さすがに”コマツマン”であり、ご発言と安崎先生のご発言と高度な一致性を伺えて大変感心です。発表会前後の打ち合わせや食卓でも、周りの方へ通訳する際、まるで安崎先生が語っているような気がする場面も多くありました。

 米国ハーレーダビッドソン(Harley Davidson)中国地域高瑾馨総裁も上海側出版社の社長も活発なご発言をなさいました。

発表会は、熱い拍手の中で主催側出版社関係者とゲストとの乾杯を以って円満にクロージングを迎えました。

 余談になりますが、翌日17日に、安崎先生は上海側出版社関係者と一緒に景徳鎮観光へ、その日偶然に車で2時間ぐらいの九江に三国遺跡があることを知った12種もの三国を読んだスーパー三国ファン安崎先生のご提案により、18日に計画外の江西省九江へ煙水亭という三国呉の周瑜の点将台観光へ行くことになった。九江でついでに計画外の人物-日中民間交流誌「和華」へ漢詩を2回寄稿された晩影さんと集合しご案内してもらい、昼食をご馳走にもなってしまい、お土産までたくさんいただきました。


短い3日間でしたが、いろんなところを回り、いろんな方々との出会いや農家料理を含む様々な美味しいものを満喫し、充実した経済文化交流兼風土人情ハイブリッド旅を堪能しました。

関連記事リンク▼
中国語記事⇒【活动回顾】世界500强日本小松原社长安崎晓演讲交流暨新书发布会日本語記事⇒2014年8月流水乱記~中国への旅

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松原社长安崎先生新书发表会 at 上海书展


 2014年8月16日、世界500强全球化企业小松原社长安崎晓先生现身上海书展,进行了新书发表以及演讲。

 当天,众多听众涌入上海展览中心二号活动区,场内几近座无虚席。发表会内容包括对安崎先生与友人的合著「日本型ハイブリッド経営」的中文升级版《聚变》的介绍,安崎先生的演讲,重量级嘉宾间的讨论,嘉宾与听众间面对面的交流等等,气氛活跃,堪称一场盛会。

 当天来场的重量级嘉宾如下:
 ・世界500強全球化企业 小松原社长 安崎晓先生
 ・小松(中国)投资有限公司总经理 王子光先生
 ・上海交通大学安泰经济与管理学院金融系费一文教授
 ・美国哈雷戴维森(Harley Davidson)中国区的总裁高瑾馨女士

 多谢发布会主办方工作人员以及高水平同声传译徐先生的辛勤工作,安崎先生的演讲以及嘉宾间的讨论得以顺利进行,赢取了嘉宾与听众间面对面交流以及安崎先生回应签名要求所需的时间。

 作为顶级全球化企业家,顶级全球化经济学家,嘉宾们从各自的角度就经济全球化背景下的企业经营简要地发表了自己的见解。

 費一文教授特别深入地提及“企业的竞争对手不是同行他公司,而是世事的变迁”这一《聚变》的精华内容,他在此点上与安崎先生颇有共鸣。另外,关于产业和金融的平衡关系,費教授将之比喻为作菜用的材料与调味料之间的平衡调控,安崎先生将之比喻为人的双腿之间的平衡调控,例子虽有所不同,听来却深感异曲同工之妙。

 小松(中国)投資有限公司的王子光总经理真不愧为一位“小松人”,他与安崎先生发言的高度一致性令人叫绝。在发表会前后的碰头会以及饭桌上他为周围的宾客翻译时,让我觉得似乎是在听安崎先生本人的解说。

 美国哈雷戴维森(Harley Davidson)中国地区高瑾馨总裁以及上海方出版社社长也作了活跃的发言。

 发表会在热烈的掌声中,在主办方出版社各位以及嘉宾们的干杯中圆满结束。

 最后余谈一下,翌日的17日、安崎先生与上海方出版社关系者一同前往景徳镇观光,在那里偶尔得知开车2小时即道的九江有三国遗址,于是曾读过12个版本三国志的超级三国粉丝安崎先生提议18日前往计划外的江西省九江三国吴国周瑜的点将台煙水亭观光,在那里顺便与计划外人物-为日中民间交流杂志“和华”投过2次汉诗的晩影先生会合,听从他的观光导航,出席他的午餐邀请,还接受了他一大堆当地特产。
 3天的时间虽然短暂,大家却尽兴游玩了许多地方,邂逅了各色各样的人物,饱尝了农家料理等等美味,尽兴享受了一场饱满的经济文化交流兼风土人情混合型观光游。

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2018年7月22日日曜日

安崎暁先生を偲ぶ会が開催されました


2018年7月21日(土曜日)、安崎暁先生を偲ぶ会はご支援された日中交流雑誌「和華」編集長孫秀蓮さん主催によって開催されました。

小規模の会でしたが、参加者は安崎先生との思い出話をしたりして、日中国交正常化前から50年近く日中経済・文化交流の促進に力を尽くした日中民家交流家、日本経済及び社会に大きく貢献し国から藍綬褒章及び旭日重光章を受章された人物、12バージョン三国志を読んだスーパー三国ファン、引退後年間100回ゴルフを目標にしていた超行動派ゴルファー、去年晩期の癌が見つかり延命治療を拒否し12月に世界中の人々を励ました生前葬に当たる感謝の会を開催し、千人ほどの来場者と握手したりお別れの挨拶をされた非凡な安崎先生を偲びました。