2017年12月9日土曜日

中国関連の仕事に就こうと決意


 9月に中国で出版された安崎会長の著作「夢を蒔く」(中国語版は、中国側出版社の主張により「机械巨人小松 无所畏惧的信念」という書名となっています)の内容を抜粋してきました。
 主に、正文から中国にかかわるコンテンツをピックアップしてきましたが、内容がばらばらになってしまっているので、先月遡って2回に分けてまえがきと序章を掲載しました。
 これからも2、3週間1回の頻度で本書コンテンツをピックアップして掲載していきます。

中国関連の仕事に就こうと決意



 大学での授業は楽しかった。特に、歴史学、哲学、心理学、経済学、地理学の講義には学問的興味をひかれた。しかし、一時は実業家になろうと思っていた私だが、入学当時は経営学、会計学、商法、労務管理などの実学には全く興味を持てなかった。またまた、実業の世界を目指すのか、学者の道を選ぶのかを迷い始めた。
 何か運動もしなければと思い、弓道部に入り、弓を引く楽しさを覚えた。
 1年生の夏休み、道場で弓の練習をしてから図書館へ行った。そこに、渋沢栄一の顔写真付のポスターを見つけた。渋沢栄一についての論文募集のポスターだった。彼は、一橋大学の創設者の一人で、明治時代の日本を代表する実業家ということは知ってはいたが、それ以上の知識は皆無だった。早速その日、図書館で彼の伝記を読んだ。
 幕末の少年時代、勤王の志士を目指し、その後、西欧視察、明治維新の大変革に加わり、国立銀行、証券取引所、ガス事業、損害保険など次々と事業を興し、民間企業発展の基礎を築いた。同時代の岩崎弥太郎のように三菱財閥を作るのでもなく、政府から金をむしり取るのでもなく、論語と算盤の二刀使いを説いて、日本資本主義の父と呼ばれた。彼に関する本を何冊か読み、論文をまとめて懸賞に応募した。入選はしなかったが佳作に選ばれ、いくらかの賞金を手に入れた。「論語と算盤」という彼の主張に触れたのは、このときが最初だった。
 外国語の講義は、英語が必須で、そのほかに第二外国語を受講しなければならなかった。ドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語、中国語の中から選ぶのだ。ドイツ語を選択するのは主流派だ。ドイツ語は新宿高校の時代にかじった。一度やったから楽かとも思った。何となく惹かれたのは中国語だった。漢詩を祖父に習ったこともあり、読んだことのある三国志、水滸伝にワクワクした記憶もある。中国は、1949年に共産党政権が成立したばかりの新しい国だった。人口の多さを考えると、将来役に立つかもしれないと思い、結局中国語を学ぶことにした。
 一橋大学は、一学年750人という小さな大学だったが、ロシア語、中国語を選択する学生は少数派だった。中国語は、日本人の熊野教授、中国人の斳先生、二人の先生に学生はわずか6人。とても家族的雰囲気で中国語を習い始めた。最初に口ずさんだ中国語は、「花紅柳緑 春天暖和 夏天熱 秋天涼 冬天冷」だ。未だにしっかり記憶している。
 ゼミナールは熊野正平(熊野中国語大辞典の著者)、石田龍次郎(人文地理)、山田雄三(理論経済学)の諸先生に学んだ。上原専禄、増田四郎先生などの歴史家、中山伊知郎、高島善哉先生などの経済学者の講義もおもしろかった。
 私は、中国の将来に関する関心を強く持っていた。この国の政治と経済、人民の生活はどうなるのか、共産主義と中国人の考えは合うのか、世界の中でどのような立場を取るのかなどを考え、中国専門の学者になって生涯研究を続けたいなどと夢想していた。建国間もない、中国の事情をもっと知りたくて、神田の中国・アジアの専門書店である内山書店にも時々行って、雑誌などを買っていた。
 大学4年になっても、まだ学者になるか、経済人になるかを決めかねていた。そこで、卒業後に学士入学で経済学部に編入してさらに2年間学ぶことにした。大学院への進学ではなく、学部を二つ回る選択をしたのは、まだ将来を決められなかったからだ。経済学部系の学問、社会学、哲学、歴史学などの人文科学系の学問のどちらにも興味があった。そして都合、6年間の学生生活を楽しむことになった。経済学部でも弓道部の活動は続け、成長経済学、経済発展理論を勉強した。ここでもよい先生にも恵まれていた。中国経済の実態を、ユニークな視点で分析する小島麗逸さんとは80歳のいまも交流が続いている。
 山田雄三教授には、「中国経済をやるにしても、ケインズやマルクスだけでなく、ハイエクも勉強しろ」とアドバイスを受けた。学問の道も厳しい。自分の中の怠け者精神に気づき、結局学者になることを諦めた。一生、学問に明け暮れるほどの根性は自分にはないと判定し、実業の世界を選んだのだった。
 卒業後、どのような会社に入ろうかと考えた。何となく中国との関係が深くなりそうな会社を選ぼうとは思っていた。先生や知人は、貿易金融の東京銀行を勧めた。このほか、鉄鋼、肥料、海運、商社、機械などどの業種から選ぼうかと模索した。ある先輩は、「一橋の学生は金融と商社に行くやつが多すぎる。もっとメーカーにも目を向けろ」と言った。そういえば、渋沢栄一も金融だけでなく産業を大事にしろと言っていたなと思い出した。(続き)

决意从事与中国相关的工作

我的大学生活过得极为愉快,尤其对历史学、哲学、心理学、经济学、地理学的讲座感兴趣、学习热情高涨。然而,一时老想着成为实业家的我,入学当初对于经营学、会计学、商法、劳务管理等实践科学却毫无兴趣。所以我又开始犹豫,是以进入实业界为目标,还是应该走上治学之路呢?
 考虑到必须参加体育运动,我加入了弓道部、尝试了拉弓的乐趣。
记得在一年级时的暑假里,我先到练功场练习拉弓,然后去图书馆。在那里看到了载有涉泽荣一脸部照片的海报,那是关于涉泽荣一的论文征稿的海报。他是一桥大学创设人之一,是明治时代日本的代表性实业家,当时我对他的了解仅限于此。那天我在图书馆赶紧读了他的传记。
 他在幕府末期的少年时代,立志成为勤王志士,后来参与了西欧视察、明治维新等重大变革、开创了国立银行、证券交易所、煤气事业、损害保険等等一些列事业,为民间企业的发展打下了基础。他没像同时代的岩崎弥太郎那样建立三菱财阀之类、也不曾花费心思向政府索取资金,而是力主论语和算盘的两立。他被尊为日本资本主义之父。接下来我又读了另外几本关于他的书,写了论文应募奖品。虽然没能入选,却入围佳作,获得了一点奖金。这是我初次接触他关于“论语与算盘”的主张。
 外语学习,英语为必修课,除此之外还需要从德语、法语、西班牙语、俄罗斯语、中文这些外语之中选修一门第二外语。选修德语为主流派。德语,我在上新宿高中时代曾经学过,因此想来要是重新学习应该比较轻松。然而,我却总是不由被中文吸引。我曾向外祖父学习汉诗,读过三国志、水浒传,这些记忆都极大地刺激了我。新中国随1949年共产党政权成立而建国不久。因其人口众多,想来中文将来应该用得上,所以我最终决定了选修中文。
 当时的一桥大学只有一学年750人的规模,选修俄语和中文的学生也为数极少。教授中文的只有日本人熊野教授和中国人斳先生二人,学生仅仅6人。我就是在如此家庭氛围之中开始了中文的学习。最初吟咏的中文有“花红柳绿 春天暖和 夏天热 秋天凉 冬天冷”,这些句子到了今天依然记忆犹新。
 我参加了熊野正平(熊野中国语大辞典的著者)、石田龙次郎(人文地理)、山田雄三(理论经济学)诸位老师的研讨会,广泛地学习知识。上原专禄、增田四郎先生等历史学家、中山伊知郎、高島善哉先生等经济学家的讲座听起来也妙趣横生、受益匪浅。
 另外,我对中国的未来的兴趣也愈发浓厚了。这个国家的政治与经济以及人民的生活将如何改变、共产主义思想是否适合于中国人的观念、在世界中处于何种立场等等,思考着这些问题,我梦想着自己成为研究中国的专家、终生从事于中国研究工作之中。为了深入了解刚刚建国的中国,我时而去神田的中国及亚洲专业书店内山书店购买杂志等相关资料。
 直到升入大学4年级,我还在为该踏上学者之路、还是商界之路而犹豫不决。于是乎,最终我决定在毕业后参加学士入学考试、编入经济学部继续学习2年。之所以没选进入大学院攻读硕士、而是选读两个不同的学部,也是因为尚未做出决定将来该走哪条路的原因。我对经济学学问、以及社会学、哲学、历史学等人文科学学问都颇感兴趣,这使得我愉快地度过了6年大学生活。进入经济学部后,我一边继续参加弓道部的体育活动,一边学习成长经济学、经济发展理论。在这里也有幸得遇一位好老师、以独特视点分析中国经济实态的小島丽逸老师,到了80岁的现在,我与这位老师还保持着联系。
 山田雄三教授亦给了我建议:“学习中国经济,别只是研究凯恩斯和马克思,哈耶克的理论也该学学”。后来感觉学问之路也是坎坎坷坷,更发现自己的懒惰性情难以克服,因此终究放弃了成为学者的打算。自认为没有足够的毅力去终生致力于做学问,于是选择了进入实业界这条人生之路。
 我开始考虑毕业后该进入什么样的公司,总觉得该选择那种与中国有密切关系的公司。有些老师和熟人向我推荐贸易金融业界的东京银行。另外,我也试着想过从钢铁、肥料、海运、商社、机械等业种里求职。有位前辈对我说:“进入金融公司和商社的一桥大学学生太多,多看看厂家吧”。这话让我想起,涉泽荣一先生也说过,不仅要重视金融,也应该重视产业之类的话。(待续)

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