2014年5月9日金曜日

企業の真の競争相手は同業他社ではなく、世の中の変化だ

今年4月にコミュニケーションの話をしようとして「韓国旅行、初めての海外旅行」という想い出話をした。

 ネット交流が盛んな今日でも現実世界での交流が欠かせないと思い、今日も少し逆戻りしたい。国内外の出張や旅行も現実世界での交流活動と言える。昔から「企業の真の競争相手は同業他社ではなく、世の中の変化だ」と言い続けてきた私は、出張や旅行を通して常にこの世の変化を実感し、なおさらこの"真の競争相手"との付き合い方を見直そうとした。

韓国旅行と同じ年の1970年、社命で3週間朝から夕方まで特訓で習ったロシア語の成果を試すために横浜からソ連船に乗りナホトカに行った。新聞社の友人と同行したためか、船で来た理由が疑問だったのか分からないが、下船まで5時間我々の荷物が徹底的に調べられた。私が秘密警察(カーゲーベー)の研究を始めるきっかけになった。その後シベリア鉄道に乗ってバイカル湖まで足を伸ばした。車中で習いたてのロシア語が一向に通じないのにがっかり。以後30回以上昔のソ連に仕事で出張したが、この時の初旅行が最も記憶に残っている。

1970年、ソ連時代のモスクワに事務所を開設した。スターリン専制記念のような第2次大戦終了後の独特の建築様式のウクライナホテルの一室が最初の事務所だった。当時のソ連は外貨不足だったが、インフラ建設、資源開発に建設・鉱山機械は必需品。ソ連国産建機の信頼性が今一だったこともあってソ連政府は、アメリカのCAT、日本のコマツを競争させて外国産建機を買い付けていた。穀物豊作の年は買い付け予算が増える。不作の年は外貨が穀物輸入に食われて建機までまわってこない。市場調査は気象予測、農産物収穫予想が重要だった。

当時の日本政府の与信政策は円建ての5年ものサプライヤー・クレジットのみ。ソ連は1ドル360円の固定相場時代にも拘わらず、円建てを好まず、5年間の為替リスクを懸念しドル建ての与信を要求した。時により商社と組んでこの要求に応じた。円建てだとソ連側が、ドル建てだと日本側が為替リスクを抱える。360円の固定相場が変動制に変わる寸前の時、円建ての未決済残高を抱えるソ連に海外でドルを調達し再貸付して円を繰り上げ返済させ、相手の為替リスクを解消させてあげたこともあった。ドル建ての自社の私的与信をソ連政府に与えた時は、5年の与信期間中返済されるかどうかの心配と、自社の為替リスク懸念の両方で、時間のたつのが大変長く感じられ、命が縮む思いをした。

この時以来、自社独自の与信をやめ、商社に頼むことにした。手数料は高いが、ソ連相手にリスクを知恵の足りないメーカが抱えるのは大変だった。お陰でソ連がロシアに変わるころのカントリーリスクには無傷ですんだ。年間2000億円の商いの年もあったからこの一部でも取りはぐれていたら事件だった。担当部長時代の話だが、不良債権に悩んでいたら私が役員になることもなかっただろう。

商品のクレーム処理にも悩まされた。2013年8月17日の朝日新聞の一面の写真を見てびっくりした。ロシア サハ共和国 ウダーチヌイのダイアモンド鉱山が極東ダイヤの宝庫として記事になっていた。この鉱山が最初に買った大型ダンプ、ブルドーザはコマツ製。ヤクートの北極に近い最果てにこの鉱山が位置している。ダンプ道路の管理が悪いのを棚に上げて壊れるのは機械が悪いとクレームを言いたてる。現場を見せろと要求しても当時のソ連は、鉱山は国家機密で外人は入れられないとの一点張り。会社のサービス技師を現地に派遣する交渉に2年を要した、客先の権限外の秘密警察、治安当局の許可がなかなか下りなかったのだろう。何とか話をつけてクレーム保証部品を送り技師を派遣することにした。行く技師たちはシベリアの果てに行くのかと出発前に家族と水杯の別かれ、日本人にはシベリア抑留のつらい話が記憶にある。先方が特別に作ったゲストハウスに滞在半年。途中で営業責任者としてこの鉱山に行った。(続き)

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今年4月我在「韩国旅行、我的初次海外旅行」一文中提及了交流这个话题。我想在网络交流盛行的今日,现实世界里的交流也是不可或缺的,今天也想回到这个话题。国内外出差以及旅行都可说是现实世界的交流活动。我从以前一直主张「企业真正的竞争对手并非同行他公司,而是世事之变迁」,我也确实总能在出差和旅行中真实地感受到这个世界的变化,并由此调整企业与这个"真正的竞争对手"之间的相处方策。

和韩国旅行同年的1970年,我受公司之命从横浜乘坐前往纳霍德卡的苏联船,这是一个能让我展示从早到晚连续3个星期俄语特训成绩的机会。不知道是因为我与报社的朋友同行,还是对我们为什么乘船来的理由抱有怀疑,我们在下船前接受了长达5个小时的彻头彻尾的行李检查。这件事成了我研究秘密警察(克格勃)的契机。那之后我们乘坐西伯利亚火车去游览了贝加尔湖。失望的是在火车上我刚学的俄语一点也没能派上用场。之后我30多次出差去过俄国,这头一次的经历最为记忆犹新。

小松于1970年在苏联时代的莫斯科开设了事务所。最初的事务所借用了乌克兰酒店的一室,乌克兰酒店那2战后的独特建筑风格使它看似有点纪念斯大林独裁统治的风貌。当时的苏联虽然外币不足,而基础建设,资源开发却必须使用建设・矿山机械。那时苏联国产建设机械尚缺信赖性,因此苏联政府常让美国的卡特彼勒与日本小松相互竞争并乘机从购买海外的建设机械。他们在粮食丰收的年份里增加购买预算,而在欠收的年份里外币要用于进口粮食,就轮不到建设机械了。由此可见气象预测和农产物收获预测在市场调查工作中的重要性。

按照当时日本政府的信贷政策,可以利用的只有以日元为结算基准的5年期供应商信贷。在1美元兑360日元的固定汇率时代,苏联因担心5年间可能产生的汇率危机,不愿意用日元而宁愿用美元结算。小松审势度势,与商社联手回应了苏联方这个要求。以日元结算冒汇率风险的是苏联,以美元结算冒汇率风险的则为日本。在从360日元的固定汇率制转换成变动汇率制之际,对于尚有未清算日元帐务的苏联,小松甚至配合他们缓解汇率风险,那就是先在海外调度好美元后再次放款,其后为他们提供短缩日元还款期间的服务。我在为苏联政府提供这个以美元为结算基准的非官方政策的信贷方策时,非常担忧他们在5年的贷款期间能否还款以及本公司的汇率风险,我感觉这5年过得尤为漫长,甚至觉得自己可能会因此而短命。那之后我们停止了本公司单枪匹马的信贷方策,使用委托商社的方式。虽然需要支付高额手续费,作为缺少这方面知识的厂家来说,比勉强承受以苏联为对手的风险好多了。万幸的是在苏联转型为俄国之际,我们并没有在这场国家风险中受损。那时与苏联之间有些年度的年销售额高达2000亿日元,其中一部分回收不了就麻烦了。那是我担任部长时代的事情,若是卷入不良债卷问题可能就毁了我成为董事的前程了。

当时的我还疲于处理商品投诉事务。 2013年8月17日的刊载于朝日新闻一页的照片震惊了我。那是一则报道俄罗斯萨哈共和国乌达奇内的钻石矿山-极东钻石宝库的消息。这个位于雅库特靠近北极的最边缘地区的矿山最初购入的大型翻斗推土机就是小松的产品。俄国人最让我棘手的是,明明是翻斗车作业现场的道路管理太差,他们却能倒打一把,一口咬定是机械的问题。我们要求到现场察看,当时的苏联却坚持矿山因属于国家机密要地,不能让外国人进入。公司花费在派遣服务技师的交涉工作上就花了2年时间,好像因为客户方面没有相关权限,而秘密警察和治安当局的许可又迟迟下不来。最后总算谈妥,运去了他们索要的部件并派去技师。历史上不乏日本人在西伯利亚被扣留的事件发生,因此技师们在奔赴西伯利亚边际之前都与家人交杯酌水,依依惜别。技师们下榻于对方特别为他们建造的招待所,作为营业主管的我途中也去了这个矿山。(续)

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