経験談といえば、本書にほかにも「雨降って地固まる」経験談が数多くあり、今日は中国官僚との大喧嘩の部分をピックアップしましょう。この大喧嘩は、コマツが中国と仲良しになるための素晴らしい前奏曲だったと言って良いと思います。
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...IISTの修学旅行で、アメリカ各地を巡った後、国務省高官から中国に関する話を聞き、米中の国交回復も近いなと予想していたので、ニクソン大統領(当時)訪中のニュースにも、日本のマスコミほどは驚かなかった。
そして、1972年、日中の国交が回復され、1978年には日中平和友好条約が調印される。この当時は、同じ共産主義国家でありながら、ソ連と中国の仲はよくなかった。条約に覇権条項を「入れる、入れない」と論議が長引いた記憶がある。中国は、当時のフルシチョフ第一書記のソ連を「覇権主義」と批判をしていた。
日中国交回復の年、田中首相と周恩来総理との会談で「迷惑」という言葉が問題となった。歓迎式典で周恩来総理が挨拶した後、田中首相は戦争責任に触れ、「過去数十年にわたって、わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明する」と詫びたが、この中の「迷惑をかけた」という表現が、「軽すぎる。そのようなひと言で片付けられることではない」と非難を浴びた。
私はこのことを、日本工業倶楽部の会報(2015年4月号、第252号)に書いた。矢吹晋氏の『日中相互誤解の濫觴』という論文の一部を紹介したのである。矢吹氏の論文は言う。「田中角栄首相の挨拶の中で“迷惑をおかけした”は、中国語では、“添麻煩”。これは、婦人のスカートに水がかかる程度の意味で小さくて軽い、と周恩来首相との間で論争があった。何とか喧嘩を収めた後、毛沢東主席との会談で、田中首相は“日本の言葉は中国から入ったとはいえ、これは万感の思いを込めてお詫びする時にも使う誠心誠意の謝罪です”と説明した。毛沢東主席は“喧嘩をしてこそ初めて仲良くなれます。わかりました。迷惑の言葉の使い方はあなたの方が上手なようです”と、贈り物として『楚辞集註』6冊を渡したそうだ」という内容だ。
私にも、中国のお役人との間に喧嘩の経験がある。コマツと中国の技術交流の結果を、技術提携契約としてまとめ、中国に小松ブルドーザを生産する工場を建設しよう、という話になったときのことである。コマツと技術進出口総公司との契約交渉は難航して100日を費やした。
中国では文化大革命が終結し、改革開放の時代に入っていた。鄧小平の「鞱光養晦」政策の始まりである。外国からの技術導入も、案件によっては問題がなくなり、我々の交渉が本格的に進んだ。私は建機第三部長として、ソ連、中国を担当していた。この交渉の途中、谷牧副首相が枚方のブルドーザ工場視察で来日した。私は、大阪のホテルから工場まで、先導のパトカーの後をノンストップで走り、ご案内した。後で知ったことだが、谷牧北首相は、中国工業近代化のため、当時のめぼしい外国の工業技術の視察を指導していたとのことだった。コマツの大阪工場でも、真剣かつ熱心に視察し、積極的に質問をされていたことを記憶している。
さて、コマツと中国の技術提携交渉は、外国貿易省傘下の技術進出口総公司がプラント建設、技術導入契約の窓口であった。交渉の場には、機械工業部の技術者が背後に控えていた。コマツは海外事業本部の弓野専務が団長、私が副団長で契約条文の交渉に当たっていた。100日という長い交渉の間、弓野専務は時々帰国した。専務が留守の間は私が団長役を務めた。
中国側の契約書原案は既に印刷されており、「これにただサインするだけだ」と公司の担当者は言ったが、中国側に都合のよい一方的な条項が多く、とてもすべては受け入れがたい。そこで、条文ごとの交渉が開始された。このやり方は、対ソ連の契約でも経験済みであった。また、私は同様の契約にあたっていたアメリカ会社の担当役員と情報交換を行っていたので、譲れない条項は、丁寧に理由を説明して、粘り強く交渉を続けた。最大の問題は、提供技術の範囲と対価、指導料であった。
あるとき、先方の担当者から「安崎さん。あなたは、たかがブルドーザの技術提供ぐらいで、中国側に高い金を払えと要求するが、唐の時代の遣唐使に漢字や仏教を教えた中国は、日本から料金などもらわずに、ただで教えてあげたのですよ」と真顔で言われた。私はびっくりして相手の顔をのぞき込んだが、相手はケロッとした顔ですましていた。
契約はいよいよ最終段階に入った。ほぼ合意が成立し、明日は調印式の段取りを相談しようというところまで漕ぎつけた。ところが翌日、全く別の人が現れ、「今までの交渉を白紙に戻す。日本企業との契約で、このような契約条項は認められない。交渉はやり直しだ」と宣言した。背後を眺めると、先方の技術者たちは困った顔をしているだけで、誰も口を開こうとしない。私は、さすがに頭に血が上った。生涯最高の怒りがおそってきた。三国志にあった「馬上憤死」の場面が一瞬頭をよぎった。心臓が破裂するのではないかというくらい激しく鼓動した。顔は真っ赤になり、呼吸も一瞬止まりそうになった。
「あなたは、100日の間、我々が真剣に交渉してきた結果を、中国政府を代表して、全く無視するのですか? とんでもない話だ。これでは、我々は交渉を取りやめ日本に帰ることにします。中国の近代化に貢献したいと、国産化を提案した、我々の善意を踏みにじるような交渉のやり方をするなら、この話はここで終わりだ」と言い放ち、当方の同僚や、先方の技術者たちが驚いて止めるのを振り切り、怒りに震えた呼吸を整えてから、一人退出してしまった。その日は宿舎に戻り、帰国のための荷造りを始めた。
翌朝、先方から連絡が入った。「皆さん、ご一緒に来てください」とのことだった。怒りがまだ収まらない私だったが、帰国の挨拶はすべきだと思い直して出かけて行ったが、昨日の担当者はいない。技術者組の団長から、「先に合意した内容で話がつきました。契約調印の準備をしましょう」と言われて安堵の胸をなで下ろした。
河合社長に連絡を入れ、社長と弓野専務に契約調印のため訪中してもらうことを決め、その日取りを決めた。社長と弓野専務の訪中を待ち、調印が無事終了した。調印式後の宴会に先立ち、先方の技術者組団長の副局長に「安崎さん。東洋の君子は、あのように顔を真っ赤にして怒り狂ったように話すものではありませんよ」と諭された。私は何も言えず、ただうなずくしかなかった。後で聞いたら、私のあまりの剣幕に、中国側がびっくりして矛を収めたと言うことだった。
政治家と違い、喧嘩の仕方が下手な私の、若気の至りの結末であった。
不打不相交~和中国的100天商务谈判
前些日子分享了安崎会长将在中国出版の新书摘选"1杯让谈判增值100万美元的伏特加~请勿盲目模仿”,是安崎会长年轻时作为一名小松人在苏联的一段“不打不相交”的经验之谈。
说到“不打不相交”,本书里另外还有不少经验之谈,今天就分享一段他与中国官僚之间的一场精彩大战。这场大战,可以说是一段促成了小松与中国相知相交的精彩的前奏曲。
...参加IIST修学旅行、遍访美国各地之后,从国务省高官关于中国的发言当中,我预感到中日恢复外交关系之日已经为时不远了,因此当我看到当时的尼克松总统访问中国的消息时,并没有像日本的媒体那么震惊。
之后,1972年,中日恢复了外交关系,1978年两国签订了中日和平条约。当时,苏联和中国虽然同为共产主义国家,关系却已经产生了裂痕。记得双方围绕是否将霸权条款写入条约里产生了分歧,讨论因而被延长。中国批判当时的赫鲁晓夫第一书记领导的苏联实行“覇权主义”。
在中日恢复外交关系那一年,田中首相与周恩来总理之间的会谈中,“迷惑”这个词成了一个问题。周恩来总理在欢迎仪式上致辞后,田中首相提及战争责任问题并进行了道歉:“在过去的数十年里,我国给中国国民添了极大的麻烦(麻烦的日语:迷惑),我对于此段历史,再次表示深切的反省之意”,然而,道歉发言里的“添了麻烦”这个表诉受到了中方的非难“那么轻描淡写的一句话不可能大事化了吧”。
我曾在日本工业俱乐部的会报(2015年4月号、第252号)上写过这件事情,介绍了矢吹晋氏的题为《探寻日中相互不信任的原点》(日语书名:《日中相互誤解の濫觴》)的论文里的部分内容。矢引氏在论文里说:“田中角荣首相的讲话之中的“迷惑をおかけした”,这在中文里的意思是“添了麻煩”。听起来只不过像把水撒到了女人裙子上的程度,给人以轻描淡写的感觉,因此与周恩来总理之间产生了争论。双方争论终于平息下来之后,在与毛泽东主席的会谈之中,田中首相就这个日语词做了如此说明:“日本的语言虽然是来自于中国,然而,这个词也能用于百感交集道歉之时,用于诚心诚意谢罪之中”。毛泽东主席回答:“不打不相识,明白了。看来还是你们善于使用迷惑这个词”,并作为礼物,向田中首相赠送了一部《楚辞集注》6冊。
我也有过与中国的官僚争吵的经验。那是小松与中国进行技术交流,已经做好了技术提携契约,正要达成协议在中国建设工厂以生产小松推土机的时候。关于这份契约,小松与中国技术进出口总公司之间的谈判工作进展不顺,所以整整花费了100天。
文化大革命结束了,中国进入了改革开放的时代,邓小平的“韬光养晦”政策随之开始实施。如此一来,从外国引入技术方面的有些问题得以解决,我们的谈判工作也得到了实质性的推进。我作为建机第三部长,负责苏联、中国方面的工作。在这场谈判工作之中,谷牧副总理来日视察了枚方的推土机工厂。我负责自大阪的酒店到工厂的向导工作,跟在前面开路的警车之后,马不停蹄地忙前忙后。后来我得知,为了推进中国工业近代化,谷牧副总理主导了前往外国视察先进工业技术之事。记得他在小松的大阪工厂,也极为认真热情地视察现场、并积极地提出问题。
却说小松与中国的技术提携谈判,负责成套设备以及技术导入契约工作的窗口是外国贸易部属下的技术进出口总公司。在谈判现场,中方有机械矿业部的技术人员待命。小松方则是访中团长、海外事业本部的弓野专务以及副团长的我参与契约条款的谈判工作。在长达100天的谈判期间,弓野专务时而回国,专务不在的时候,由我代行团长之职。
中国方的契约书草案已经打印了出来,“在这上面签字就行”,中方公司的担当者如此说,然而很多条款的内容都是利于中国方面、对于日方而言难以完全接受。因此,我们开始逐条进行交涉。这个方法,来自于与苏联签署契约时积累的经验。另外,关于那些小松与美国公司契约中内容相同的部分,我与美国公司的担当董事互通了信息,因此针对不能让步的条款,我耐心细致地向对方说明理由、进行了持之以恒的交涉工作。最大的问题在于提供技术的范围、中方支付给小松的价格以及技术指导报酬。
有一次,对方的担当一本正经地对我说:“安崎先生,你们最多不过给我们提供推土机技术而已,就向中国索取高额报酬,而中国向遣唐使传授了汉字和佛教,却并没有向日本要钱、免费教给你们了哦”。我吃惊地探头看他的脸色,他像啥事没有似的不了了之了。
契约的谈判工作终于进入了最后阶段,合意几乎都已经达成、正在打算第二天商议签字仪式的事情。然而到了第二天,来了一位从没有露过面的人,宣称“至今为止的谈判完全取消。与日本企业之间的契约里,这样的条款不能放入。谈判必须从头开始”。看他的背后,对方技术人员们虽然脸色犯难,但是谁也不开口。这还了得,我一下子冒火了。前所未有的愤怒向我袭来。一瞬间,三国志里王朗马上愤死的场面涌上心头。心脏就像即将破裂似地剧烈跳动,脸色发红,呼吸也几乎要停止了。
“你能代表中国政府,全部无视我们辛辛苦苦100天,脚踏实地、认真谈判得出的结果?太荒谬了。这样的话,我们也停止谈判、回日本。我们怀着为中国的近代化做贡献的意愿,提出了小松产品在中国国产化的建议,而你却如此践踏我们的善意,这话就到此为止”,我丢下这些狠话,不顾大吃一惊的我方同僚以及对方技术人员们的阻拦、整理了一下气得哆嗦的呼吸、一个人离开了。那天回到宿舍、开始打点行李准备回国。
第二天早上,听说对方有消息来了,是“请大家一起来”。我虽然怒气还没有平息,不过想到回国之前的道别还是应该进行的,于是就去了。昨天那位担当不在场。技术人员组的团长说:“就按照先前达成共识的内容办。准备签字仪式吧。”,听了他的话,我放下了心头大石。
接下来我联系了河合总经理、与他商量后决定让弓野专务赶赴中国出席签字仪式、并定下了日程。然后等来了弓野专务、顺利地完成了签字仪式。在签字仪式后、宴会开始之前,作为对方技术人员组团长的副局长对我谆谆教诲:“安崎先生,东洋君子不应该那样满脸通红、勃然大怒地说话哦”。我除了点头认可什么也说不出来了。后来听说,我那异乎寻常的汹汹气势让中国方面大吃一惊后偃旗息鼓了。
没有政治家的手腕、没有吵架的技巧,幸得血气方刚成全了我。
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