2017年8月5日土曜日

日中国交回復、初訪中~「夢を蒔く」からの抜粋


安崎会長の中国語版著作「夢を蒔く」(仮称)の出版がカウントダウンに入りました。前回のピックアップ内容は、著者の中国への興味が年齢とともに成長しキャリア形成に繋がった話でした。

キャリア人生と言っても、本書は決して一個人のキャリア人生に限る内容ではありません。

著者のご友人である関 眞次先生は、本書が「小松製作所」を主人公とする「歴史産業経済大河ドラマ」だとコメントされています。
中国側の出版社が本の名称を変えたいという気持ちも少し分かってきました。
関先生は、本書の後書きにこう書かれています▼
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小松製作所という建設機械メーカーの創業前から現在までの仕事をつぶさに見ることで、明治維新後の日本の工業化の進展、明治産業人の行動、戦後の混乱期からの復興、オイルショック・ドルショックによる混乱、バブル時代の好況、リーマンショックによる不況という、日本の産業史を改めて確認することができたことだ。
 これは、私にとって「小松製作所」を主人公とする「歴史産業経済大河ドラマ」ともいえるものであった。物語は江戸末期、黒船の来港で右往左往する人々の中で、果敢に黒船に乗り込んで談判した土佐藩の志士、竹内綱のエピソードから始まる。彼は、小松製作所の創業者である竹内明太郎の父であった。明治維新後、竹内父子は鉱山業を始め、海外の文献やお雇い外人から最新の知識を学び、それに日本流の創意工夫を加えて、さらに進化させていく。
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これからも本書の内容を2か3週間おきにピックアップします。著者は現役時代、中国だけではなく、全世界を舞台にしていたのですが、中国での出版なので、主に中国にかかわる章節の内容をピックアップして載せたいと思います。


日中国交回復、初訪中



 ...1972年に日中の国交が回復した。翌年私は、ソ連、中国などの主として共産圏商売を担当する初代のプロジェクト課長となった。その結果、ようやく念願の中国と仕事上の関わりを持つことができるようになったのである。
 初訪中の緊張感は今でも忘れられない。当時は、まだ日中間の直行便の飛行機はなく、香港経由での中国入りだった。このときは、河合良一社長名で出した「小松ブルドーザ中国国産化提案」の起草者として、事務局長的な役どころで、第1回の訪中団に加わったのである。
 このころの中国は、建国してまだ日が浅く、日本では細かい情報は得られなかった。「竹のカーテン」の中がよく見えなかったのである。そのため、中国に入る前の香港に到着すると、「中国本土では、ご馳走を食べられないかもしれない」と懸念し、みんなで子豚の丸焼きに舌鼓を打った。
 我々訪中団が本土に入ると、コマツ一の中国通である吉田一臣さんが案内役となった。まず、広州に一泊して広東料理を楽しんだ、そして、空路北京へと飛んだが、そこは人民服と自転車の大群だったことが印象的であった。このころ、北京の空は青かった。

●技術交流の思い出
その1:江戸時代の日本には「士農工商」の身分制度があったが、中国でも、「工」は「商」よりも待遇がよかった。我々営業部隊のビジネスマンは算盤をはじく「商」、物作りに関わる技術者は「工」。かくして、技術者たちは一流の北京飯店、我々は格下の新疆飯店をあてがわれた。
その2:こちらが中国を珍しく感じるのと同様に、彼らにとっても日本からの客は珍しい。日中の技術交流は、お互いが初体験だが、共通語は「ブルドーザ」であった。交流の場で、中国人技術者たちのハングリー精神には驚かされた。我々コマツの団員の中に、薩摩林さんという学者風の部長がいた。彼は、信頼性試験についての学術書の著者で、その本の内容を彼らに説明した。翌日の会議で、彼は中国人技術者たちからの質問攻めにあった。おそらく徹夜で翻訳し、回し読みしての質問だったのだろうと想像した。
その3:洛陽のトラクター工場の視察に訪れた時のことである。宴会の挨拶は、革命委員会に属する共産党の代表者が行った。おもしろい話は聞けなかった。昼間の技術的、専門的な質疑は、副工場長以下の実務部隊の人がやった。ところが、ブルドーザと農業用のトラクターとはものが違いすぎて会話が弾まない。さすがに量産する台数はすごいが、設計も生産設備も旧式だった。
 ここで、忘れられない思い出が二つある。一つは、香港から持参したピーナツ缶に関わる思い出。少し食べ残しがあったが、もう食べたくなかったので夜汽車の窓際に置いて下車した。ところが翌日のこと、これが忘れ物として私の部屋に届けられたのである。これには、本当にびっくりした。
 もう一つは、女性に関わること。河南省洛陽市にある龍門の石窟に案内されたとき、案内してくれたのが絶世の美女。聞けば、工場の従業員だという。「流石は、古都洛陽。昔の皇帝の愛人の末裔か」とみんなで噂をした。その後、各地を何度も訪れたが、彼女を超える美人にはお目にかかれなかった。
その4:北京でのモーニングコールは、大群の自転車が走る音と、数少ない自動車がけたたましく鳴らす警笛だった。当時の車道は自転車の天下だが、出す音は、自動車も負けてはいなかった。後に、自動車会社の人に聞いたら、日本から各地にタクシーを輸出したが、「クラクションが壊れる」クレームは中国のみだったという。中国タクシーのクラクション使用頻度は、設計基準をはるかに超えていたそうだ。

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安崎会长的中文版著作《播种梦想》的出版进入了倒计时阶段。
话说上次的博文,摘选的是著者对中国的兴趣随着年龄的增长而成长并对其职业生涯产生了极为良好作用那部分内容。
说到职业生涯,事实上这本书的内容绝不仅仅局限于一个个人的职业生涯。
借用著者的友人関眞次先生的话来说,本书是一部以“小松制作所”为主人公的“历史产业经济大河剧”!
如此,中方出版社想更改书名一事,也是可以理解几分了。
関先生在本书后记里如此写到:
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……通过深入细致地了解小松制作所这家建设机械制造商自创业前到现在的事业发展历程,得以重新确认了日本产业的历史,包括明治维新之后日本工业化的进展,明治时代产业人的行动、战后混乱期开始的复兴事业、石油冲击及美元冲击导致的混乱、泡沫经济时代的繁荣、雷曼冲击引发的经济不振。
这对我来说,可以说是以“小松制作所”为主人公的“历史产业经济大河电视剧”。故事发生在江户末期,在黑船来港、熙熙攘攘的人群之中,果断地登上黑船进行谈判的土佐藩志士竹內纲揭开了故事的帷幕。他,是小松制作所的创业者竹内明太郎的父亲。明治维新后,竹内父子开始了采矿事业,从海外的文献和雇佣的外国人身上学习最新知识,再加上日本方式的创意功夫,事业得以不停地发展壮大……
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此后,本博也将2或者3周一次,从这本新书里摘选、分享一些内容。虽说著者的职业生涯舞台并非仅限于中国、而是整个世界,但是因本书即将在中国出版,因此着重摘选分享一些与中国有关的片段内容。

中日邦交正常化后首访中国

 1972年,中日两国恢复了外交关系。次年我成为了主要负责苏联、中国等共产主义圈子营业项目的第一代课长。如此一来,我的工作终于开始如愿与中国产生关联,梦想与现实之间缩短了一步。
 第一次访问中国的紧张感,至今尚记忆犹新。当时,中日间没有直达航班,所以我们是经由香港进入中国。以河合良一总经理名义起草并提出了“小松推土机中国国产化提案”的我,作为事务局长之类角色加入了这第1次访中团。
 那时,中国刚建国不久,国门未开,从日本看不清“竹幕”内的世界,因此我们对中国知之胜少。所以一到中国的前一站香港,大家担心“进入中国本土后,没什么好东西吃了吧”,于是聚在一起,大快朵颐了一顿烤乳猪。
 我们访中团一行进入中国之后,有小松第一中国通之誉的吉田一臣先生负责我们的接待工作。首先,我们在广州住了一晚,享受了美味粤菜,然后飞赴北京,在那里,身穿中山装的人群和川流不息的自行车给我留下了深刻的印象。那时的北京,天空蔚蓝。
●技术交流的回忆
其1:与江戸时代日本存在“士农工商”的身分等级制度相似,当时在中国 “工”享受的待遇也优于“商”。我们营业部队的商务人员属于拨打算盘的“商”、从事产品制造工作的技术人员属于“工”。因此,技术人员们被安排住进了一流的北京饭店、却让我们下榻低一个规格的新疆饭店。
其2:正如我们对中国抱有新鲜感,在他们看来,我们也是珍贵的日本来客。中日技术交流对于双方来说都是头一次,因此“推土机”成了我们的共同语言。在交流场所,中国技术人员表现出来的对新知识的渴求精神震撼了我。我们小松访中团员里,有位学者风貌、名叫萨摩林的部长。他是一本关于信赖性测试学术书的著作者,他对他们介绍了那本书的内容。没想到在第二天的会议上,他成了中国技术人员们连珠炮似提问的对象。我想,他们应该是通宵达旦地翻译并反复研读了那本书、因此才能提出那么多的问题。
其3:是去视察洛阳卡车工厂时候的事情。在宴会上讲话致辞的是革命委员会里的一位共产党代表,他的发言没什么让人感兴趣的东西。而白天进行的技术性、专业性提问,则为副厂长以下的实务人员负责进行。然而,由于推土机和农用卡车有着根本的不同,双方会话契合不上、进行得不尽如人愿。虽然量产台数数目颇大,然而设计以及生产设备都已经陈旧落后。
 在这里,发生了两件让我难以忘怀的事情。第一件是有关从香港带去的花生米罐头的往事。罐头里还剩有一点没有吃完,因为不想吃了,晚上我将它放在了车窗边就下车了。没想到第二天,这被当作遗失物品送到了我的房间,着实让我大吃了一惊。
 第二件是关于一位女性的事情。当我们被带去参观河南省洛阳市的龙门石窟时,接待我们的是一位绝世美女。据说是工厂的职员。大家不由胡乱猜测、啧啧赞叹不已:“真不愧是古都洛阳。是不是古代哪位皇帝爱人的后裔呢”。那之后,我多次访问中国各地,却再也没有见过美貌超越她的美人。
其4:在北京,早上叫醒我的是成群结队的自行车声音以及少数汽车鸣发出的尖锐刺耳的喇叭声。当时的车行道几乎被自行车占满,然而数目极少的汽车发出的喇叭声也毫不逊色。后来问过汽车公司的人,被告知,日本的出租车出口世界各地,却只在中国接到过“喇叭坏了”之类的投诉。中国出租车使用喇叭的頻度,远远超过了设计基准。
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